最終章

 3

 
 宇宙の永い営みの中で、一体私たちはどの位置にいるのだろう……とオリヴィエは思う。守護聖たちは、この宇宙がもう既に終末期にあると言った。あの日から五十年近くが過ぎようとしている。それですら長い時間だと感じるのに、千や万の位の年月が如何様なものなのか、その中で育まれ続けたものがどれだけ重いのか、突き詰めて考えたところで答など決してではしないという結論にいつも達するのに、今またそれを思わざるを得ない。
 【記録】の中で見たものはオリヴィエの心の中で、色褪せることはなく、様々な現実に直面した時、彼は【記録】を思い出し、そして考える。この宇宙という場所に自分が生きた時の長さと重さを。
 オリヴィエは、目前にある重厚な扉に手をかける。その向こうにジュリアスが横たわっている。もう幾日も持つまい……と伝令が届いて駆けつけてから三日が経つ。が、まだ一度も、彼と言葉は交わせていない。ジュリアスは一日の大半を眠って過ごし、ごくたまに目を開ける。寝ている間に夢でも見ているのか、目覚めると二、三の指示を側近に出し、再び、瞳を閉じるのだという。
「ジュリアス、ご機嫌はいかが?」
 オリヴィエは、この三日間、毎朝、彼の元を訪れ、眠っていると判っていてもそう話しかける。返事はない。オリヴィエはすっかり白くなったジュリアスの髪を見つめた。光を受け、風になびくその髪のなんと美しかったことだろう。自分の髪のことはさて置いて、オリヴィエはそう思う。
 そうしてしばらく側に居た後、去ろうとすると、ジュリアスの瞳が開いた。瞳の色は相変わらず深く濃い青だった。
「オリヴィエ、来ていたのか? 久しぶりだな」
 その声が、死に瀕した老人のものとは思えないほどにしっかりしていた。
「なんだ、元気そうだねえ。今、白くなった貴方の髪を見てしみじみとしていたところだよ」
 今ではモンメイの賢摂政と言われ、老いてなお美しい容姿と威厳から尊敬を集めるオリヴィエも、ジュリアスの前では、くすくすと笑いながら、若い頃と変わらぬ口調で話す。
「お互いさまだ」
 ジュリアスがそう言った時、オリヴィエは背後で扉が開いたのに気づいた。その足音からオスカーだと判る。
「でも良かったよ、お互い白くなるだけで、オスカーみたいに禿げたりしないで」
 と聞こえよがしにオリヴィエは言う。
「おい、こら、誰が禿げだ! 禿げてるものか、少しばかり毛が痩せただけだ」
 すかさずオスカーが叫ぶ。オリヴィエに比べれば、日頃の鍛錬が効いているらしい彼は、がっしりとした体躯は若い頃のまま、かつてのラオを思わせる風情を身に付けていた。リュホウの後を継ぎホゥヤンの王となった彼だが、それは王というよりもいぜんとして騎士のようだった。
「ふふ……」
 とジュリアスが笑った。それが嬉しくてオスカーは彼の枕元に駆け寄る。
「ジュリアス様、今日はお顔の色が良いですね」
「そうそう、さっき、少し笑っていたよ。いい夢でも見て、スッキリ目覚めたんじゃない?」
 オスカーとオリヴィエは二人して、ジュリアスを覗き込むように見た。
「ああ……夢の中でな、私は死にかけていたのだ。あの時の夢だ……」
「あの時?」
 オスカーの顔が曇る。自分たちが西方よりもたらした知識によって、東の大陸は大きく変革した。ジュリアスとクラヴィスの邂逅により、二つの大陸を隔てていた障壁が消え均衡が保たれ、聖地という存在が明らかになったことで、聖地からのサクリアが民の心 に受け入れられたことも大きかったのだろう。今まで立ち後れていた分、貪欲に彼らの世界は発展したのだった。クゥアンとオリヴィエのいるモンメイ国との同盟関係は揺るぎないものだったが、その他属領となっていた地方が、これらの進歩に伴い力を付けることになった。大飢饉で政情が不安定になった後、南部領を中心とした独立戦争が起こり、ジュリアスは敵対勢力に命と帝位を奪われることになった。その時、クゥアン軍は優勢でありながら、僅かな隙をついてジュリアスは、平原のただ中で襲われた。オスカーは気も狂わんばかりに一帯を駆けて探し、枯れ木の根元に横たわる瀕死のジュリアスを見つけたのだった。今でもその時の話は、ジュリアス本人よりもオスカーの方が避けているほどだった。
「それがどうして可笑しかったんですか?」
 オスカーは、強張った顔をして言った。あの時の事を思い出すと今でも指先が泡立つように震えてくる。
「……夢の中で、血だらけで死に瀕した私を、もう一人の今の私が見ていて、おい、こら愚か者、起きぬか、そんなだからむざむざと斬られたのだぞ、と蹴るのだ」
「そりゃ失礼なことだねえ」
 オリヴィエは優しげに言い返す。
「うむ。すると蹴られた私はこう言ったのだ『愚かとは何だ。私は愚者ではない。常に民と国を思い正しき道を歩いていた。図られたのだ、卑怯な手によって』と言うと、また言い返された……」
「何と言われたのです?」
「『非の打ち所のない指導者……。だが皮肉なもので、そうした人物ほど疎まれることもある。誰もが高潔で強くあるわけではないのだ。己が正しくあればあるほど、他者が愚かに思えることがあろう、お前の心のどこかに傲りがあっただろう?』とそう言われた」
「弱者に施しをするのは簡単なことだけれど、心から労るのは難しい。自分では気づかぬところで私にはそういうことがあったかも知れない、反省しよう……と、答えると、幼子の頭を撫でるようによしよしと褒めてくれたのだ。それが嬉しくてな……」
 先ほどまでしっかりしていたジュリアスの口調が、言葉の最後は弱々しくなった。
「あの後、ジュリアス様はご立派でした。きちんとまた帝位を取り戻しになり、再びクゥアンも、この大陸の国々も安定しました」
 オスカーは、ジュリアスのみならず誰かがこの事件に触れると、いつもそう付け加える。
「ジュリアス、少し疲れた?」
 無言になった彼にオリヴィエが言った。
「いや……。ふと、西の者たちはどうしているのか……と気になった。クラヴィスはまだ健在なようだが」
「判るの?」
「ああ……この寝台は、そこの窓から夜になると聖地が見えるように置いてある。それを見ていると、ついぞ……再会は叶わなかったがクラヴィスの……気配……闇のサクリアを感じる」
「他の皆も元気にしているだろうか。いろいろあっただろうけれど、良い晩年を迎えていて欲しいね……ワタシたちのようにね」
「そうだな、皆、もういい年寄りになってしまっただろうなあ。……あのリュミエール王が禿げてでっぶりと太っていたら嫌だなあ」
 オスカーが自分の髪を気にしながら、ふと漏らした呟きにオリヴィエが大笑いした。ジュリアスもクックッと笑う。そして、少し咳き込んだ。
「ああ……騒いでしまって申し訳ありません。そろそろお暇します。ゆっくりお休み下さい。これから久しぶりに騎士団の者たちに逢ってきます」
 オスカーは、ジュリアスに向かって頭を下げた。
「皆によろしく伝えてくれ。春になったら……また狩りに出ようと……」
 ジュリアスは目を瞑りつつ言った。
「ワタシも一緒に挨拶に行ってくるよ。ジュリアス、明日また伺うからね。具合がよければ五元盤でもしようか?」
 オリヴィエがそう声を掛けたが、ジュリアスはもう小さな寝息をたてていた。
 翌日早朝、空が白み始め、聖地の輝きが朝日の中に消えた頃、ジュリアスは眠りの中で静かにその生涯を閉じていた。
 
 

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