第三章 訪問者

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 その夜、ジュリアスは不思議な夢を見た。何もない暗い空間の中を漂う夢だ。どこかで誰かの悲しげな気配がする。まるで出口の判らぬ迷宮に入り込んでしまったように、光差す方向を求めている気配だ。だがジュリアス自身もその 閉ざされた暗い迷宮のような中にいるのに、出口が何処にあるのか知っている気がして少しの不安もない。それに自身の周りだけは、ぼんやりと明るい気もするのだ。せめて悲しむ者の側に駆け寄って慰めてやりたいが、ふわりふわりと漂うばかりで歩くことすらも出来ない。“では、泳ぐようにして前に進めばどうだろうか?”と思うが、上下も左右も判らない。ふいにジュリアスは気づく。この闇の空間が、そのどこかの誰かが嘆く心の裡なのだと。
“ああ、ならば。……ならば、わざわざ行って慰めてやる必要はないのだな……。悲しむ者よ、私はそなたの裡にいる者だ。そなたの求める方向はここだ、私の周りはちっとも暗くないぞ……”
 ジュリアスは、漂うに身を任せて、そう呟いた。やがて、暗かった空間が少しづつ晴れてゆく。ジュリアスを中心として光が、外縁へと拡がっていく。と、同時に悲しむ者の気配が薄れていった……。

 広い贅沢な造りの部屋の中央に天蓋付きのベッドが置いてある。僅かに青みがかった薄い紗が優雅に掛けられている。ジュリアスが手足を十分に伸ばしてもまだ余りあるそのベッドの上、純白の寝具に身を包まれて目覚めた彼は、ここがクゥアン城の私室ではなく、教皇庁の迎賓館の一室であると気づくと、ゆっくりと上体を起こした。昨夜の夢は、不可解なものではあったが、後味の悪いものではなく、むしろすっきりとした気分がしていた。
 一体、今は何時なのだろうと、ジュリアスは辺りを見回した。薄い紗を通して壁に掛けられた時計が見える。日時計でも水時計でもない機械仕掛けの時計だ。時計の針は六時少し前を指している。クゥアンにもそういうものがあるにはあった。だがそれは、もっと巨大なものだ。その上、幾つもの歯車が、上手く噛み合わず止まってしまうこともある。 実用性はなく、あくまでも珍しい飾り物の域を出ていない。西の大陸の小さく精巧に作られた機械時計を見つめたまま、ジュリアスは、昨日の事を思い出す。この迎賓館の中にある贅を凝らした広間での晩餐の様子を……。
 その宴には、ジュリアスたち一行の他は、ルヴァ、クラヴィス、それに、リュミエールが、スイズ城から駆けつけた。初対面同士が交わすありきたりの会話から始まった晩餐は、陽気な騎士団の者たちがいたお陰で、笑いの絶えない良い雰囲気の場となった。
 クラヴィスとリュミエールにとっては、最も気になるところの東の大陸の様子などは、ルヴァが金枠を同じくする例の石の事などを含めザッと事前に説明していてくれたらしい。騎士団や給仕の者たちが出入りするその場では、双方あえて その事は触れずにいた。

 ベッドから出たジュリアスは、身支度を調えると、寝室を出た。まるで居間のような広さの廊下を挟んでズラリと各個人に寝室が用意されていたが、まだシン……と静まりかえっている。側仕えが控えている部屋が、廊下の端にあり、「御用の折はいつでもお呼び下さい」と言われてはいたが、自分が早く起き過ぎたのではないか……と思ったジュリアスは、まずは朝の空気を吸うために居間から続いている中庭へと出 ることにした。背の低い庭木が小さな塀の代わりとなっている。間隔を等しくしてきっちりと並べられた花壇には、季節の花々が美しく植えられている。何もかもが一分の隙もなく計算されて手入れされている庭は、美しいものではあったが、そのような庭の造りに馴染みのないジュリアスにとっては、どこか落ち着かない気がしていた。その庭木の塀にそって作られた小道に沿ってしばらく歩くと、小さな池のある裏庭に出た。先に大聖堂が見えている。
“この迎賓館は、大聖堂の裏手に位置するらしいな……”
とジュリアス思い、自然と足がそちらに向く。やや行くと聖堂内に続くと思われる扉が見え、そっと開けてみると、衛兵も執務官もおらず、ここも静まりかえった長い回廊が続いていた。迎賓館とは趣が違い、華やかさはないが、木の彫り物を施した重厚な扉が幾つも並んでいた。
 

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