第三章 訪問者

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 ジュリアスは、すぐ近くにある扉に、馬の彫り物がしてあるのを見つけ、それに惹かれた。大地を蹴って今にも駆けて行きそうな躍動感に溢れた彫刻だった。少し間を開けて次の扉の彫り物は、美しい女性の横顔だった。その次の扉には、咲き乱れる花々の、その次は大海を馳せる船、次は高く連なる山々……。ジュリアスは、奥へ 奥へと誘われるように扉を眺めて歩いた。最後の扉に辿り着いた彼は、そこに鳥の彫り物を見た。優美な長い羽根を広げたそれは、実在するものではない。
「神鳥……」
 誰もいない静まりかえった廊下にその呟きが、ぽつんと響く。教皇庁の御印だと言うそれは、西の大陸に辿り着いて、漁村に停泊することになった時から、多く見てきたジュリアスだった。漁村の者たちが教皇を崇める為に描き込んだらしい落書きのような陳腐なものもあったが、大陸横断列車の駅に掲げられていた旗に施された金糸の刺繍は美しく翻っていた。ジュリアスは、ある感慨を持って目前の扉の神鳥を見ていた。クゥアン王家の紋章と似ているのである。東の地に於いても、鳥を紋章にする家は幾つかあった。飛ぶ鳥を模したもの、二羽の鳥を仲睦まじく並べたもの、尖らせた爪を強調したもの、その意匠は様々であったが、 伝説の生き物である竜にも似た頭部を持ち、羽ばたくというよりも立ち上がったような姿で天に向けて羽根を大きく広げる神々しいその姿のものは、たったひとつクゥアン王家のものだけだった。東から来た者たちもその事には気づいていて、騎士団の者たちは、「偶然ですね、やはり身分の高いお家柄故の一致で しょうか」と感心していた。オリヴィエとオスカーは、さすがに、“ただの偶然”とは口にしなかったが……。
“これもまた何かの符号なのか?”
 ジュリアスは、神鳥の彫り物に触れ、細かく彫られた羽根を撫でた。その瞬間、驚くほど軽く扉が向こう側へと開いた。
「あ……」
 開かれた扉の隙間から覗いたそこは大聖堂の中で、前方の壇上がすぐ側に見えていた。昨日は礼拝の者たちで、動く隙間もないほどだった聖堂内は、当然のことながら今は静寂の中にある。高い梁から下げられた神鳥のタペストリーだけが、天窓から差し込む光を受けてきらきらと輝いている。
 昨日一番後から、チラリと見た時の印象よりも、それは思いの外、大きく、織られたものではなく、細かな刺繍によって描かれたものと判り、ジュリアスは息を飲むようにして、その真下に近づいて行った。
“これだけのものを一針一針刺してゆくには、どれ程の時が掛かるのだろうか?”
 聖地への崇拝なくしては到底為し得ない気の遠くなる作業にジュリアスは思いを馳せる。よく見ると神鳥以外の部分にも、下布と同色の糸で、蔦や花々の地模様が刺されており、等間隔に小さな透明の水晶が埋め込まれている。強い光が直接あたると反射して遠くから見てもきらきらと輝くようになっているのだ。
「ほう……」
 とジュリアスが、感嘆の声を思わず上げた時、今し方、彼が入ってきた扉がスッと開き、クラヴィスが顔を覗かせた。クラヴィスは、思わぬ先客に一瞬驚き、立ち止まった。普段ならば クラヴィスは、この時刻はまだ寝室にいるはずだった。昨夜は例の“悪夢”に魘され、いつもよりも早くに逃れることが出来たものの、かえって目が冴えてしまい、二度寝が出来ぬままに明け方を迎えたクラヴィスは、早朝のうちに、日課の祈りを済ませてしまおうと 、偶然にもやって来たのだった。
「勝手に入ってしまい申し訳ありません」
 ジュリアスは、まずそう詫び、迎賓館から裏庭伝いに散策していて、回廊の扉の彫刻に惹かれて歩くうちに最後の扉に辿り着き、聖堂内に入ってしまったことを説明した。
「扉を開けるつもりは無かったのですが、扉に触れただけであまりにも簡単に開いてしまったもので……」
 詫びるジュリアスに、クラヴィスは、いいのだというように首を小さく振り、最前列の席に座り、ジュリアスにもその隣に席を薦めた。
「あの扉は、そういう風に出来ているのです。軽く押すだけでそっと開くように」
「何故、そんな風に?」
「礼拝の為に民が全て聖堂に入った後、教皇があの扉から入り、壇上につくために造られた扉です。その時、小さな鐘がずっと打ち鳴らされているので、扉を開ける邪魔な音がせぬよう軽く開くように。……にしても……」
 クラヴィスが、クッと笑った。
「どうされました?」
「表回廊の民が出入りする扉には、全部に小さな鈴が付けられていて、開ける時に多少なりとも音がする。そうすれば見回りの衛兵が飛んできただろう。裏回廊の……今、貴方が通って来られた所にある扉は全て、普段は締め切ってあって開かない。後方の一番大きな扉の前には、昼夜を問わず衛兵が立っているから、私の許可無くしては入れなかったであろう。唯一、この奥の扉だけが誰にも咎められずに入ることが出来た扉だった。そして、この扉は、教皇専用とされているので、たとえ開け放たれていても誰もそこを通ることはない……」
 教皇しか出入りしない特別の扉と聞き、ジュリアスは驚いた。
「それは……失礼を……」
 立ち上がり詫びようとする彼をクラヴィスは制した。
「良いのです。貴方は東の地の皇帝、無礼などありません。私の方こそ、詫びねばならぬ。ルヴァから聞きました。教皇の教えを重視するあまり、皆、東のご一行を見下した態度を取っていたようだ……と。昨日は、まずそれを詫びねばならなかったのだが……」
 クラヴィスの言葉に、ジュリアスは小さく頷いた。宴の席に着いたクラヴィスが、リュミエールとともに自身の紹介をした直後に、運ばれてきた料理や酒の見事さに、東の者たちの目は釘付けになってしま ったのだった。ルヴァが、「あー、お腹が空きましたねえ。ねえ、クラヴィス、まずは食べませんか?」と気を利かせてくれたのだった。
「いいえ。我らのあの態度では、粗野な地から来た田舎者と言われても仕方がない。実際、ここは東とは比べようにならぬほど発達した地だった。魑魅魍魎の住む世界とはよく言ったものだ……」
 ジュリアスの失笑に、クラヴィスも同じ様な笑いを重ねる。
「家や言葉すら持たぬ民が、聖地へ献上するための作物を作っているから、東の地は侵してはならぬとここでは言い伝えられて来た……」
 二人は、互いにそう言いあった後、溜息をついた。
「意図的に、何かが……? 」
 ジュリアスは、神鳥のタペストリーを見上げて言った。
「もういつの御代かも判らぬほど遠い昔の教皇が、書き残したもの中に【時が満ちるまで東の地は不可侵であるように】と記されている。歴代の教皇がそれを民に告げ、東は不可侵とされている。まだ未熟なので保護されるべき民であるとか、聖地への賜り物を作っているなどというのは、長い時の中で、後付けされたもの です……」
「教皇一族というのは世襲で、二千年もの間、この場所で延々と続いていると聞いた。それならば、言い伝えや書き記したものの管理も容易かろう。いつの御代かも判らぬとは解せぬのだが……?」
 率直な疑問をつい口にしてしまってからジュリアスは、その口調がオスカーやオリヴィエに話す時のようだったと気づいた。また無礼を詫びようと思った瞬間に、クラヴィスが口を開いた。彼もまた旧知の仲の者に言うように、「あそこに古ぼけた扉があるだろう?」と 、 壇上の奥に周りの木壁と同調するような目立たぬ扉を指さして言った。 ジュリアスもクラヴィスも、それぞれの地位とは無関係に、ただ共有する謎について一刻も早く、語り合いたい友人同士のような気持ちになっている。
「あれも教皇しか開けられぬ扉で、あの中には教皇と次代を次ぐ者しか入れぬことになっている。掃除の者も入れない」
 それと、いつの御代かも判らぬ文献の話とどう関係があるのだろう? と思いながら、ジュリアスは視線を扉から、クラヴィスに移した。
「あの扉の向こうに塔があるのだ。時歴代の教皇が書き記したものは全てあの中にある。先のそうした言い伝えなども皆、あの中に残された歴代の教皇の日記や見聞などだ。残された文献を隈無く読み、大事と思われるところを抜粋して本にまとめて次代に託す者もいれば、一度入ってみたものの、辛気くさい所だと二度と足を踏み入れなかった者もいたという。中には、黴まみれの文献など不要だと処分した者もいたかも知れない。それ故に、きちんとした管理などされては来なかったのだ。ルヴァから聞いたが、クゥアンの王は皆、賢王だったそうだが、そういう者たちばかりが教皇になっていたならば、よかったのだが。教皇は違うのだ。高潔な者ばかりとは限らない。私のように然したる意志もない者が選ばれる時もある……」
 クラヴィスの心には、セレスタイトが思い浮かび、そう語る声が自ずと小さくなる。ジュリアスにも、それが伝わった。
「兄君の事は、ルヴァ殿から聞いた。教皇が持つ聖地よりの力、闇のサクリアというのだったか……それがどんなものかも列車の中で教えて貰った。聖地の存在自体がまだ信じられぬ私には、それがどんなものなのか推し量ることすら難しい……。けれども、我らが東の地から携えてきた様々な疑問と、聖地の存在はどうやら切り離せぬ事のようだ。【時が満ちるまで東の地は不可侵であるように】とは? いつを指すのだろう? クゥアン王家の紋章が、この聖地の印でもある神鳥と酷似しているのは何故だろう? そしてあの『石』だ……、あれは一体どういうことなのだろう?」
 昨日の宴の席では口に出来なかったことが、ジュリアスの心の奥底から湧き上がってくる。言葉を選ばずに、ただ思い付くままを問いかけることなど普段の彼ならば滅多にないことだった。
「何も判らぬ。兄セレスタイトが聖地人になったことは事実で、聖地というものが確かに存在し、我々の住む世界に深く関わっていることが改めて確認できただけで、以降、聖地からは何の音沙汰もない。ただ、【時が満ちるまで……】の時とは、東から遙々とやって来られた、今を指し示すのではないか……と私は思うのだが」
「だとしたら、聖地から何か……」
 ジュリアスの期待は、クラヴィスの期待でもある。
「ただ、父である前教皇が、兄が召喚される時に聞いたところによると、聖地とこことは時の流れが違うらしい。この地の数年は、あちらではほんの数日だという。それでは、約束のない待ち合わせ……のようなものだ」
「結局、何も判らぬままに我らは、東に戻らねばならぬ、か。いや、それでも私たちの旅は、大いに意義があった。漁村に残った者たちは船の技術を学び、騎士団の者たちは、それぞれの得意な分野の様々な教えを請うことになっている。私もこの地の国の制度をしっかりと学んで帰ろう。それに……」
 ジュリアスは、そこでスッと立ち上がり、クラヴィスの方に向き直った。
「あの若き日に聞こえた、大山脈の向こうから私を呼ぶ声に応えることは出来た。大山脈は我らにとって地の果てだった。その向こうにあるものを確かめることは、私にとっては第一の目標だったのだから」
 垂れ下がる神鳥のタペストリーを背にしたジュリアスの姿を見上げるような角度で座っているクラヴィスは見ている。清々しい前向きな姿勢と、自分に自信を持つ者の凛とした強い声、敬愛する兄セレスタイトに似たその雰囲気が、背にした神鳥に負けることなく堂々と映る。東は不可侵であれ 、という教えを教皇自らが破るわけにはいかなかったとはいえ、ただ時の来るのを待っていただけの自分との違いをクラヴィスは感じる。だが、以前の彼ならば、そこで自分を矮小な者だと感じ て俯いてしまったかも知れないが、この十年ほどの月日の中で、彼もまた目の前のジュリアスに恥じぬ生き方をしてきた。ジュリアスの姿に臆することなく、クラヴィスはゆっくりと立ち上がり、 彼の横に並んだ。自然と二人の視線は、神鳥の紋章へと移る。自分たちが、こうして出逢ったことを、聖地に告げるように、ジュリアスとクラヴィスは、しばらくの間、ただ黙ってそれを見上げていた。
 

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