夕刻から、ジュリアスたちの船を一気に北へと押し上げるような強い風が吹いていた。いっぱいに風を受けて進む船に皆の期待が高まる。
だが翌日、まだ日も昇りきらぬ早朝、目覚めた彼らが見たものは、一寸先も見えぬほどの濃い霧だった。風はほとんど吹いておらず、霧の晴れるまで、碇を降ろしてじっとしているほかなかった。
「長生きしとるが、こんな濃い霧は見たことありゃせん、まだ夜かと思うた」
ラオは、船室の窓から何も見えない外を見て言った。
「クゥアンじゃ、濃い霧は珍しいものね。モンメイでは、時々あったよ。山が近いからね」
オリヴィエは、ふああ……と大欠伸をしながら答える。誰かが甲板をドタバタと歩きながら歓声をあげている。若い第一騎士団の者たちだ。
「ヤンめが、霧が珍しゅうて、はしゃいでおりますのじゃ」
ラオは、扉を開けると「こら、お前たち、子どもじゃあるまいし、静かにせんか!」と窘めた。
「だって、じぃちゃん、ほんの先も見えないんだよ、面白いよ」
霧の中からヤンが言い返す。
「馬鹿者! 調子に乗っていると船から落ちてしまうぞ。それに、下の船室には怪我人もいるし、遅番でまだ寝ている者もいるのだ。少しは考えなさい」
ラオがピシャリと言うと、再び霧の中から、「申し訳ありません……」と若い者たちの声がした。
「もう少しして日が昇り、温度が上がって来たら、晴れてくるだろうけど、風は吹くかな……」
オリヴィエが、そう呟いた時、船底の部屋からオスカーが上がって来た。眉間に皺が寄っている。
「こんな霧じゃ仕事にならないって水夫たちは二度寝しちまったぞ。後、半時くらいなら許してやるか……と思って放ってきたけど……。 おや? ジュリアス様は?」
「毎朝の日課だよ。船首で剣舞、ヤンと良い勝負の元気さだろ?」
オリヴィエが、くすくすと笑いながら答える。
「こんな霧の中でか?」
何しろ一寸先も見えぬほどの霧なのだ。うっかり他の誰かが近づいて怪我をする事も考えられる。おおよそジュリアスらしくない行動だ、とオスカーは思う。
「もちろん、剣なしだよ。型だけ」
オリヴィエは、壁側に掛けられたままのジュリアスの剣を指し示す。オスカーは、納得したように頷き、オリヴィエの側に座った。やはりオスカーの表情は、冴えない。その原因が水夫たちにあると見たラオは、「なあ、オスカー殿。風が変わって今日で七日目じゃ。水夫たちは、そろそろ気が短こうなっておるのではないか?」 と、オスカーの気持ちを見切っているかのように言った。
「そうなんだ。少し前までは、風が変わったり、魚が釣れたりして盛り上がっていたんだが、おとといあたりから陸地は、まだかまだかと文句ばっかりだ。おまけに今朝のこの霧だろ? やる気が削がれちまってる」
「しょうがないのう。ヤンたちみたいに脳天気に騒いどるのもどうかと思うが……」
「皆が、ラオみたいにどっしりと構えていてくれたらねえ」
オリヴィエは、ラオに微笑みかける。
「いやいや、儂とて、船上の生活には、些かうんざりだ。陸地が恋しいわい……と手足をバタバタさせたいぐらいじゃ」
ラオが、情け無そうな顔をしてそう言うと、オスカーとオリヴィエは、自分たちもそうだと言わんばかりに頷いた。彼らが気を取り直して、僅かばかりの朝食を食べ終えた時、ヤンが、船室に戻ってきた。
「霧が少し晴れてきたみたいです。風も出て来ました」
「そうか。よし、水夫たちに知らせて来るとしよう」
オスカーは立ち上がると、ゆるく開けていた襟元をキユッと引き締めた。
「儂も甲板を一回りしてこよう。朝の空気を吸わんと気が滅入ってくるからのう。どっこいしょ」
「ワタシも行くよ」
オリヴィエとラオが立ち上がり、船室から出ようとしたその時、第一騎士団の若者の叫ぶ声が聞こえた。続いて、誰かが走っている音。
「何じゃ?!」
ラオたちは、慌てて甲板に出る。まだ霧は残っているが、先ほどまでのように一寸先が見えぬほどではない。船首の方にジュリアスを始めとして数人の者が集まっているのがぼんやりと見えている。
「どうしたんだい?」
オリヴィエとラオ、それにオスカーとヤンも駆け寄る。
「先ほど、霧の晴れ間から陸地のようにものが見えたらしいのだ」
ジュリアスは、振り向かずに前方を見たまま言った。
「誰が見たんだ?」
オスカーはその場にいる騎士団の者たちに問いかける。ヤンよりも二つほど年上の若い青年が振り向いた。
「斜め左の方向に見えた気がして、思わず声を上げてしまったんです。ほんの一瞬でした。確かめる間もなく見えなくなってしまって……申し訳ありません……」
青年は、見間違いかも知れないと自信がなくなっている。ラオは、気にするなというように彼の背中を二度ほど軽く叩いてやった。
「霧が晴れれば判ることだ。さあ、もう明るくなってきたぞ、皆、持ち場に着くのじゃ」
ラオは、騎士団の者たちを、その場から去るように促す。
「よし、俺も水夫たちをたたき起こして、碇を揚げさせよう」
オスカーも、船室に戻っていく。
「帆が弛んでる、風が強く吹いたら受けきれないよ。ヤン、手伝って」
オリヴィエはヤンを伴い、帆をきちんと張り直しに向かう。その場に残されたジュリアスは、今日一日の無事を祈りながら、皆と同じくその場から離れようとしたその時、風が彼の頬を強く掠めていった。髪を緩く束ねてあった革紐がほどけかけ、思わず自分の髪を掴む。乱された前髪を掻き上げて顔を挙げた彼は、薄くなった霧の向こうに、緩やかな起伏を描いて拡がる大地を見た。そして、すぐさま、一旦瞳を強く閉じた。幻であるなら、この目を開けた時、掻き消えろ!と念じて。だが、ゆっくりと開いた目に、再び見えているものが確かにある。ジュリアスは、振り向いて皆に叫ぼうとしたが、そうしたとたん、今この目に映るものが失われてしまうように思える。
“陸だ!”とジュリアスは心の中で叫ぶ。目頭が熱くなってくる。涙を落とすまいと彼は顔を挙げる。真上の空は、ほとんど霧が晴れ、清々しい青空が拡がっていた。ジュリアスは、空に向かって叫んだ。
「大地が見える」と。
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