第二章 再 会

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 その朝は、霧が出ていた。この地方では初夏の朝方に、たまにある現象で、日が昇る頃にはすっかり晴れてしまう。普通ならば大したことはないが、船を出すにはもう少し様子見したほうが無難だろうと、漁夫は思っていた。 
 その漁夫の傍らには、彼の息子がいる。まだ十歳を少し過ぎたくらいの少年だが、見習いとして、時々、漁に出ている。
「なあ、父ちゃん。さっき霧の合間に船が見えたよ」
 少年は、眠そうな顔をして言った。
「何、寝ぼけてやがるんだ。そんなはずはねぇ。この霧に船を出す馬鹿がいるかぃ」
 父親は取り合わず、漁に使う網を点検している。
「でも見たよ。チラッと見えた」
「そいつぁ、お前、見ちゃなんねぇもんを見ちまったかもな」
 作業していた手を止めて立ち上がった漁夫は、腰に手を当てて背中を伸ばして、凝りを解す。
「なんだよぅ? 見ちゃないねぇものって?」
「今でこそ、この辺りは教皇庁管轄地になっちゃいるが、ずっと前は、ここいらはひとつの国だったって言うのは知ってるだろ? 国って言っても、あんまり良くない国でな」
「良くないって何がだよ?」
「貧乏で、治安が。泥棒とかそういうのも多くて、海にも海賊がいたんだ。積み荷やら魚やらを横取りしようとする連中だ。でも、教皇庁がそういうのは退治してくれたんだ。お前が見たのはそういう海賊船の亡霊じゃねぇかなあ」
 わざと少年を怖がらせようと、漁夫は大袈裟に言う。案の定、少年は、「やっぱり見てない」と言った後、口をへの字に噤んでしまった。豪快に笑う父親の横で、少年は、拗ねながら拾った貝殻を、少しづつ晴れ始めた海に向かって投げた。五つ目の貝殻を投げようと、大きく振りかぶった少年の腕が、ピタリと止まる。
「と、父ちゃん! 出た!」
 沖を指さしながら、少年は父親の背後に回る。
「え……」
 漁夫は、息子の差し示した方向を見て、驚きの声をあげた。この辺りでは、見かけない船が沖にぽつんと見えている。漁夫は腰に下げていた望遠鏡を慌てて覗いた。どう考えても、同じ漁夫仲間の船ではないし、ヘイヤあたりの商船が何かのトラブルで流れついたにしては、帆はボロボロで、型も古すぎる。ひとつの可能性が漁夫の頭に過ぎる。
「ありゃ……大変だ! お前ひとっ走り、村長の家まで行って来い! 本当に、東からお客人が来たみたいだと、言うんだ」
「幽霊船じゃないの?」
「違う。教皇様のお告げの通り、東からお客人が来たんだ……たぶん。もしそうじゃないとしてもこの辺りの船じゃないから村長に報告しないといけないしな。ともかく、さあ、早く行け!」
 漁夫は、まだ霧が残る沖を見据えたまま息子を促す。少年は訳のわからぬまま走り出した。息子が使いに出た後も、彼はじっと霧の残るの向こうを見つめていた。
 漁夫は心の中で、『例のおふれ』が回ってきた三年前の事を思い出している。村長の家で、集会があった時のことだ。教皇様からの公布があると言って、珍しく教皇庁の役人がやって来たのだった。いつかは判らぬが不可侵とされている東の地より客人があるかも知れないので、見つけたものは、村長にすぐ伝え、村長は教皇庁の役人がいる役場へと速やかに届け出る旨を告げたのだ。その場にいる誰もが、いまひとつ現実味のない公布に首を傾げつつ、教皇様がそう仰るのだから……と、心の隅に留め置いたのだった。
「たまげた……。本当に教皇様の予言通りにおいでなすったのかも……」
 漁夫の脳裏には、第一発見者に出される報酬のことがチラリと頭を掠める。はっきりした額は決まっていないが、幾ばくかの金が礼金として出されるだろうと役人が言っていたのだ。早く報告すればしただけその金額にも色が付くだろうと。家族に服を新調してやれるくらいの額か、漁船の修繕費くらいは貰えるかも知れないと思う。ともかくも漁夫は、その船を見失うまいと、沖の方向を凝視していた。
 

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