教皇庁にも、広場が民に占拠され、翌日王城へと向かったという報告だけは、いち早く届けられていた。いつもは開け放たれたままの門前も、万が一の事態に備え閉ざされている。施錠こそされてはいないが、衛兵が何十人も横並びになって険しい顔をして立っていた。そんな所へ、リュミエールが使わせたスイズ城からの早馬が到着した。
「教皇様に至急、お目通り願いたし! スイズ王からの使者でございます!」
馬上の側近は声を張り上げる。その側近の髪や衣服は先ほどの騒ぎで薄汚れて乱れてはいるが、王家の紋章の入った鞍に滅多なことでは見られないほどの美しい白馬の姿に、教皇庁の衛兵たちは、慌てて開門する。
「スイズ城からの早馬が参りました! 教皇様に、目通りを願っております」
と、叫びながら衛兵は、教皇の執務室へと走る。早馬の側近は、すぐに謁見の間に通され、平伏さんばかりに頭を下げて教皇を待っていた。
「使者よ、如何いたした? 騒ぎのほどは?」
ややあって教皇がやって来た。着座し終えないうちに教皇は尋ねる。
「は。申し上げます。今朝方より民が城に押し寄せ、暴動となりました。中の王子アジュライト様のご説得が、裏目に出たのと、広場で民たちに慕われていた老人が死亡したことが引き金となり、ついには城門を打ち破られましてございます。王族の皆様方は、城外へ
避難なろうとしましたが、民に捉えられ……」
側近は、そこで、喉を嗄らして咳き込んだ。
「慌てるでない、落ち着きなさい。そうか……王が民に……」
「民の長と見られる者たち数名が王を取り囲み、スイズの国政を変えるのだと申しました」
「国政を変えるとは?」
「農夫や鉱夫など民からも代表を出し、様々な事柄は、王の一存ではなく会議で決めるのだと申しまして、新しい王にリュミエール様をつけよと迫りました」
「リュミエール殿だと? しかし、リュミエール殿は行方が……」
「はい。それがどうしたわけか、その場にリュミエール様がおいでになりまして」
「なんと。ではご無事であったのか! それは何よりだが、一体どうして?」
「私もまだ何も存じません。ただリュミエール様は民たちと同行されていたようでございます。見違えるほどに毅然としたりりしいお姿にお変わりでございました。王がそれに同意なさり、騒ぎは終息に向かっておりまする」
「リュミエール殿が王にのう……」
「は。リュミエール様より、すぐに教皇庁より和平の使者をダダスに向けて出して頂けるようにと言付かりましてございます。スイズの勝利間近を踏まえても尚、戦いの終結の為に、教皇様より仲裁に入って頂くようにと」
「そのご決断、しかと承った。すぐに手配致そう。スイズは、次代に良き王をお迎えなさりましたのう」
「は」
つい先ほどまで前王付きだった側近が、誇らしげに深く頷いた。
その彼らの話を、謁見の間に入る扉の影で聞いていたものがあった。ジェイド公と彼の腹心の武官である。どうやら暴動が治まったと聞き、ジェイドたちはそっとその場を離れた。
「早めにけりが付いたな。これで、我が武官たちの派遣が遅れたことへの言い訳もたつ」
「スイズ王城からの協力要請に応じなかったのは正解でございましたな。武官を出していたら、我らも前王と同類と見なされて民の反感をかっていたでしょう」
「うむ」
ジェイド公は、感慨深げに頷いた。ダダスとの戦いが優位に進んでいたとはいえ、その間に民の不満がどれほどに膨れあがっているかは彼にも判っていた。強引な政策を執り続ける中の王子と、国政に関心のない上の王子、各地で幾度となく繰り返されている民と兵との小競り合い、いずれ大きな暴動が起こるかも知れない……と思っていた彼は、その読みが当ったことに、満足そうな微笑みを浮かべた。そんな状況下だからこそ、自領の民には、わざとらしいまでに情けをかけて評判を上げ、足固めをしてきたのだ。スイズの王政が代わるようなことがあった時、民だけの力ではどうにもならないことも彼には判っていた。堕落した長いスイズ王朝に代わり、新たなる王になることも夢ではないと。末の王子リュミエールが、新王になってしまったことは、予想外ではあったが、年齢、経験的に見ても自分の敵ではないとジェイドは思っていた。どういう経緯かはわからないが、あくまでも彼が新王に推されたのは、新政権が動き出し、軌道に乗るまでの暫定的なものに過ぎないだろうし、実権のない王なれば、それに取って代わることなど造作もないだろう……とジェイドは思う。何より自分は、次期教皇セレスタイトの血を分けた伯父ですらあるのだ。スイズ国の王と、第一枢機官、二つの地位と名誉がまさに打ち揃って自分の前に差し出されている……。
「忙しくなる。私はこれより自領へ戻るぞ。館に着いたらお前は、食物庫を開放し、被害の大きい東部の村へ送る手筈を整えろ」
「なるほど。民の評判もますます上がりますな。それと、教皇庁の門前に控えさせております者どものことはどういたしましょう?」
武官は小声になった。それは、クラヴィスが戻ってくるのを監視している者を示す。
「スイズ城の騒ぎで、こちらの門前も衛兵の取り締まりが厳しくなっております故、不審者と見るやすぐに尋問に衛兵が駆け寄る始末。昨日も、物乞いのふりをさせていた者があわや捕まるところでございました」
「我が名が出るようなことはないだろうな?」
「もちろんでございます」
「ならばよい、今まで通りに。セレスタイトが教皇になるまでは、やはり手を抜けぬからな。後、書簡係りの者にもよくよく言うておけ。クラヴィスからの便り、決して見逃すでないぞ。それにしてもあやつ、何処に隠れているものか……。聖地が見えないから生きているだのとセレスタイトも教皇様も仰るが、どうにも訳のわからぬことだ」
「やはり生まれに相応しい場所で面白可笑しゅう過ごされているのでしょうか?」
「ああ、今頃はどこぞの娘とでも良い仲になって、身の程を弁えた暮らしておれば可愛げもあるものだが」
そう言いながらジェイドは、腹心の武官と共に、車寄せへと向かうと、薄い緑に金で縁取られた小さいながらも豪奢な馬車に乗り込んだ。
教皇庁を出てしばらくすると、ジェイド公の馬車は、速度を落とし道の脇へと移動し始めた。
「いかがした?」
武官が訝しげに御者に問うた。
「へい、スイズ王城の馬車が向こうから連なってやって来ますんで。四台……か五台ほど」
ジェイド公と武官は、窓から頭を出し、それを確かめた。確かに王家の黒塗りの大型馬車が、かなりの早さでこちらへとやって来る。その行き先が、教皇庁であろうことは察しが付く。
「大方、リュミエール様や内務大臣やらが打ち揃いて、いち早く教皇様へ挨拶か報告へでも馳せ参じるのであろう。いや、王妃や寵妃が民からの報復を恐れて逃げ込むつもりか……」
「いかがいたしましょう? 我らも今一度、戻ってご挨拶申し上げた方が良いでしょうか?」
「いや、かまわぬ。あの馬車に乗っているのが、新政権に関与する面子ならば、この後、嫌というほど付き合うことになるのだし、古い王族の方ならば、もう何の用もない。それより、早く自領へ戻って、ゆったりと祝杯を楽しみたい」
ジェイドは座り直すと、武官に馬車の日よけを深く下げるよう指示した。
「あい、すみませんーー」
スイズ城の馬車の御者が、すれ違い様、道を譲って貰った礼を叫びながら去っていくと、ジェイド公の馬車の御者は、また馬に鞭を入れ、速度を速めた。
「疲れた。しばらく眠る」
ジェイドは、瞳を閉じる。すれ違ったその馬車にクラヴィスが乗っていたことは知る由もなく。馬車の揺れに身をまかせて、明日の栄光を夢見ながら、しばしの眠りへと入っていった。
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