第八章 蒼天、次代への風

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 「セレスタイトが旅に?」
 新教皇冠授与式の正式な発表を促す為に、まずは妹である皇妃の元にやってきたジェイド公は、セレスタイトが旅に出たと聞いて驚きの声をあげた。
「ええ」
 皇妃は、例の法衣の衿の刺繍をしながら答えた。
「どうしてまた、こんな時期に?」
 ジェイド公は眉間に皺を寄せた。
「こんな時期だからですわ。入ってくるのは、スイズとダダスの戦いの暗い知らせばかり。体調も崩しておりましたから、休暇を取るように勧めましたの。お兄様も兼ねてからセレスタイトに少し休むよう仰っていたでしょう?」
「それは、まあ、そうだが……。あの堅物がよく休暇を取ったものだと思ってな」
 ジェイド公は、まだ信じられない様子だった。
「それに……。教皇になれば、仲の良い若い従者を連れてのお忍びの旅などままなりませんもの」
 皇妃は顔を少しだけあげてジェイド公の反応を見た。新教皇の事が出たとたん彼の表情が明るくなるのが判る。
「そうか、そうだな。なんといってもセレスタイトもまだまだ若いのだ。教皇になる前に、一度くらいは羽目を外して遊んでおきたかろう。そう言うことなら判るぞ。しかし急だな。三日前に逢った時は、スイズとダダスの戦いのことばかり気にかけていてそんな話はしていなかったのに」
「戦いもスイズ優勢で終結しつつあると聞いて気でも変わったのでしょう。まだ戦火のある東方は避けて南……ヘイヤを越えて海辺を回ると言ってましたわ」
 皇妃は、再び刺繍に視線を戻した。だが、針は、布地を突き刺さない。指先が微かに震えている。それを悟られまいと皇妃は、色糸を取り替えるふりをした。
「最近は教皇の具合も落ち着いていますの。セレスタイトの留守の間の執務は差し支えありませんし、枢機官の皆様にもご迷惑をかけるようなことはないと思いますわ」
「うむ。では、新教皇冠授与式の正式な発表は……」
「それは、息子が……。息子が帰って来てからでよろしいでしょう」
 皇妃はジェイド公と視線を合わすことなくそう言った。セレスタイトという名前ではなく、“息子”と。
“嘘ではないわ、クラヴィスだって私の息子なんですもの……”
 皇妃は、色糸の束をギユッと握りしめた。
「では、教皇様にご挨拶をしてから帰るとしよう。どこにいらっしゃるのかね?」
「聖堂で祈りを捧げていらっしゃいます。先ほど行かれたばかりですからしばらくはお出ましになりませんわね。お兄様がいらしたこと、お伝えしておきますわ」
 立ち上がったジェイド公に、皇妃はホッとし、やっと笑顔で答えた。
「よろしく頼む。しばらくは議会もないから、ここに来る用もないが、セレスタイトが戻ったらぜひ教えてくれ。旅の話を聞きながら、これから先に事について話し合いたいのでな。ああ、見送りはよい。その法衣の刺繍を急がんとな」
 満面の笑みを浮かべてジェイド公は帰って行った。扉が閉められたとたん、皇妃は大きな溜息をついた。
“大きな嘘をついた……お兄様に……”
 早くに両親を亡くし、若くして家を継いだジェイド公は、皇妃にとっては親代わりでもあった。家は父の代よりも大きくなり、ダダスの姫を押し退けてまで、教皇の妃となる名誉をお膳立てしてくれたのも彼の手腕によるものだった。些か強引な所があるものの、皇妃にとっては、尊敬すべき兄であり、彼に逆らったことはもちろん、その場しのぎの些細な嘘さえついたことはなかったのだ。
 それが……。
 セレスタイトが、聖地に上がったことを皆にどう説明したものかを教皇と皇妃は、真っ先に相談し合った。その証拠となる闇の守護聖から賜った水晶球と共に、すぐにでも聖堂にセレスタイトの肖像を掲げではどうだろうかと案を出した教皇に、皇妃はそれを控えめに否定した。
『今しばらくの間の猶予を。思う所がありますの……』
『それは……ジェイド公のことかね?』
 教皇は、静かに言った。
『兄は、セレスタイトが教皇になることを誰よりも望んでいます。もしその可能性がもはやないと判ると……心中穏やかではいられないでしょう』
『ジェイド公が第一枢機官となってセレスタイトと共に教皇庁を担って貰えればとずっと思っていたのだが……』
『クラヴィスが教皇となれば、兄には血の繋がりがありませんから、恐らくは現在のままの地位か、派閥によって枢機官から外される可能性もあるのでしょう?』
『ああ、そうだ。他国との兼ね合いもある。申し訳ないが、こればかりは私の一存ではどうにもならぬ』
『それに私たち自身の心の整理もありますわ。もう少しの間、このことは伏せておいて頂きたいのです』

 昨夜のやり取りを皇妃は思い出していた。さらに、彼女には、兄であるジェイド公にだけでなく、夫である教皇にも、押し隠している気持ちがあったのだ。ここ何年もふと頭をもたげては、否定し続けてきた事が……。クラヴィス失踪の陰に、もしや兄が関与しているのではないという疑惑を、皇妃は心から拭えないでいた。クラヴィスが聖地からの力を継いだと判った時の兄の表情、その後、東の辺境地への旅をお膳立てしたその素早さ……。

“クラヴィスが生きているのは間違いのない事実、けれど兄はクラヴィスの生死や行方を知らないようだわ。もしも本当に兄がクラヴィス失踪に関与しているのなら、セレスタイトの事が知れたら、兄はどんな行動に出るのだろう? なんとしてもクラヴィスには戻って来て欲しくないはずだわ……”
 皇妃は、何か悪い予感がしてならない。無事にクラヴィスが戻ってくるまで、セレスタイトの事は伏せて置きたいと彼女は思ったのだった。ジェイド公だけでなく、他の者たちにも隠し通せるのは、せいぜい、夏の盛りの頃までが限度のように思われた。その間に、クラヴィスがはたして戻ってきてくれるだろうか……、皇妃は、その不安を押し殺して、再び、刺繍に神経を集中しようと努めたのだった。

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