第七章 光の道、遙かなる処

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 食堂から引き揚げたクラヴィスは、自分の小屋には戻らず、思うところあって、そのまま表門へと歩いた。見張りの鉱夫が、クラヴィスを見ると、坑穴での事を労う言葉をかけた後、怪訝な顔をした。
「外へ行くだって? こんな時に?」
「スモーキーと一緒にここを出ることになった。酒場にツケを払いに行く」
「こんな時だ。踏み倒しちまえばいいのに」
「店の酒代だけならそうするが、女にも貸しがあるんだ」
 クラヴィスの言葉に、見張りの者は、ニヤリと笑った。
「ま、そうことなら馴染みの女ともしばらく別れになるからな。夜明けまでにはまだ間があるし、楽しんでこいや」
 クラヴィスは、あえて否定しようともせず、門から外に出ると町へと急いだ。
 
 いつもと変わらぬ夜のようだった。採掘現場での事故など無かったような。だが、近くの町の酒場の女たちは、鉱夫たちが誰も来ないのを不審に思いながら退屈そうにしていた。クラヴィスが、酒場の扉を開けると、世間話しをしていた女将とガネットが、待ちかねたように立ち上がった。
「クラヴィス! ねえ、何かあったの? あんまり客が来ないんで、どうしたんだろうって、女将さんと言ってた所よ。こうまで誰も来ないのは、事故でもあったんじゃないかって思ってたんだけど?」
 ガネットは、クラヴィスがまだ何も言わないうちから、捲し立てるように言った。
「ああ、事故があった」
「やっぱり!」
 女将とガネットは顔を見合わせた。
「どの程度の事なんだい? もう誰も来そうにないなら店は閉めちまうつもりだけど」
 女将は客足が気になる様子で言った。まだ疲れの残るクラヴィスは、事故の話しをしたくなくて「大したことはない」と短く答えた。そして「だが今夜は誰も来ないと思う。私も……ツケを払いに来ただけだ。すぐに帰る」と愛想無く言った。彼の言葉に、女将は「ふうん」と言って、面白くなさそうに肩を竦めた。
「せっかく煮込んだ料理も今日は無用さ。あたしゃ、厨の火種を消してくるから、クラヴィスのツケの精算をしておやりよ。それが終わったらあんたももう上がって休んだらいい」
 女将は、ガネットにそう言うと奥の厨房に消えた。
「すまない、これを」
 クラヴィスは、札を数枚、ガネットに手渡した。
「貰いすぎだわよ。確か二枚で充分なはず……待って、調べるから」
 帳簿を見ようとして、その場を去ろうとするガネットを、クラヴィスは呼び止めた。
「いいんだ。多い分は、あんたが貰っておいてくれ」
「どうしたのよ? 一体? それに賃金の支払い日でもないのにツケの精算だなんて」
「…………」
 即答しないクラヴィスの表情を、ガネットはじっと見つめた。
「現場の事故と何か関係があるの? 事故が大したことないって嘘じゃないの? 余所の現場にでも行くの?」
 立て続けにガネットに言われて、クラヴィスはすぐに言葉が出ない。ガネットは、クラヴィスの態度から何かあったと察し、すぐに穏やかな口調に戻った。
「まあ、いいわ。言いたくないんなら。多い分は有り難く貰っておくわね」
 ガネットは、札を胸の谷間に押し込むと、腰に手を当てて、グィッと顔を上げて、クラヴィスを再度見た。
「まだ何かあるの?」
「頼み事があるんだが……これを送っておいてくれないか?」
 クラヴィスは、ポケットの中から折りたたんだ封筒を取りだした。
「フング……東の辺境宛てね。これって、あんたの実家宛てじゃない? 仕送りでしょ?」
 クラヴィスは、黙って頷いた。
「やっぱりどこかに行くつもりね? 余所の現場に移るだけなら、新しい現場から自分で出せばいいんだもの……。まさか、今の現場から逃げるつもじゃ……。一体、どうしたのよ?」
 ガネットは、奥にいる女将を気にして呟くように言った。世話になった彼女に何も言わないで去るのは、気が引ける気がして、クラヴィスは、大雑把にスモーキーの事と、現場の事故の事を話した。
「大変だったわね……。ありがとう。言ってくれて。そんな時にツケまで払いに来るなんて律儀な男ね、あんたも」
「ガネットには世話になった。どれほど助かったか知れない。だからツケのあるまま行けなかった。あんたにとばっちりが来るだろう?」
「でも大丈夫なの? 道中、何日も誰かと一緒に野宿しながら教皇庁に向かうんでしょ? またアレが来たら……」
「坑道での事故の夢を見たと言えば、一度や二度、なんとか切り抜けられるだろう」
「まあね。一緒の小屋で何年も一緒に暮らすわけではないものね。でも、誰か、たぶん魘されているあんたを起こそうとするでしょうね。どうしたって起きないから驚くわよ。何したって起きない。あんた、私がいろいろしたけど、何も気づいちゃいなかったでしょう?」
 ガネットは、意地悪そうな微笑みを口端に浮かべそう言った。そして「うふふ……」と笑って駄目押しをした。クラヴィスの頬が、一瞬サッと赤らんだように見え、ガネットはしてやったり……という顔をした。
「ねえ。ついでに教えて頂戴よ。クラヴィスの事。東の辺境に実家があって、そこから出稼ぎに来ている……って事になってるけど、本当はどうなの? あんたは他の鉱夫とは違うわ。いつか寝言で、“兄上”って言ってたわ。それ以前に、文字の綴り方や、身のこなしで判るわよ。どこか良い家柄の人なんでしょう? ああ、安心して。決して、それをネタに揺すろうってわけじゃないのよ。ただ、あんな風に魘される理由や、こんな所で働くことになった訳を純粋に知りたいだけ」
 ガネットの言葉には嘘はない。その事はクラヴィスにも判ってはいた。だが、本当の事を話す訳にはやはりいかない。話した所で、信じて貰えるかどうかも判らない。クラヴィスはそう思うと、首を左右に振った。
「すまない……。どうしても話せない」
「仕方ないわねえ。じゃ、いつか話せる時が来たら、話して頂戴。どうせ私は帰る実家もないし、今更、誰かと一緒になって健気に尽くせる歳でもなし、現場近くの酒場でしか生きられない女よ。働けるうちはここにいるから、出世して、たんまり土産を持って話に来てよ。……でも本当の歳くらいは教えてくれない?」
「十九」
 ぼそっと答えたクラヴィスにガネットは目を見開く。
「やっぱりね! 皆が思ってるより若いとは思ってたわ。だってあんた、魘されずに眠ってる時、まだ可愛い顔してんだもの。ああ、いやだ、十九だなんて。私の歳の半分だわよ」
 ガネットは、クラヴィスを睨み付けた。
「す、すまない……」
 思わず咄嗟に謝ってしまったクラヴィスに、ガネットは笑う。そして、『もうお行きなさいよ』とでも言うように、クラヴィスの背中に回り、店の扉を開けた。
「ありがとう……ガネット」
 クラヴィスは、小さく頭を下げた。
「どういたしまして。せっかくだもの、別れのキスでもしていく?」
 ガネットは、自分の唇に人差し指を立てて言った。クラヴィスは身を屈め、彼女の頬に唇をつけた。
「それってママにするキスよ。やっぱりあんた、ぼうやねえ」
 ガネットは、不満そうに口を尖らした後、「元気でね」と笑顔に戻って付け足した。クラヴィスは頷くと振り返り、酒場を後にした。
 採掘現場までの夜道歩きながら、クラヴィスは、自分の足取りがまたいつものように軽くなっていることに気づいた。今まで、ガネットの所から戻る時は、いつも、あの悪夢の翌日であった。心に溜まっていた重いものが排出され、幾分、気持ちが楽になる。
 採掘現場では、自分と他者との間に距離を置き、うち解けて話す相手もいない孤独の中にあって、ガネットは、唯一、束の間ではあるが、自分をさらけ出すことの出来る存在だった。お喋り好きで陽気、歯に物を着せぬ態度で男たちをあしらうが、よけいなことを問わず、口も堅い、そんなガネットを、クラヴィスは、人として純粋に好きになっていた。
 最後の最後まで気持ちよく自分を送り出してくれたガネットに、クラヴィスは心の中で手を合わせるような気持ちになった。それと、この気分の高揚は、リュミエールのせいもあると、クラヴィスは思った。 
 彼が問いかけてきた時、一瞬、背筋が凍り付くような思いがしたのだったが、リュミエールに悪意がなく、どうやら彼自身も何か事情を抱えているとすぐに判ると、自分が誰であるか知っている相手に出逢えたことに、嬉しさのようなものが込み上げてくるのが判った。
“結局、私は寂しかったのか……”と、クラヴィスは、夜道を歩きながら思う。

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