第七章 光の道、遙かなる処

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 役人たちが登庁する時刻にはまだ早い時間、セレスタイトは、大聖堂へと向かっていた。色硝子の埋め込まれた長い回廊からは、穏やかな朝の光が差し込んでいるが、彼は、その心地よさや美しさに心を開く余裕もなく歩き続ける。大聖堂の扉の前では、見張り兵が眠そうにしている。セレスタイトの姿を見た兵士は、慌てて一礼すると、彼の為に扉を開いた。労いの言葉もそこそこに大聖堂に入ったセレスタイトは、祭壇にもっとも近い場所に座ると、じっと真正面に掲げてある神鳥の壁掛けを見上げた。
「どうしたものか……」
 と呟いた後、セレスタイトは頭を垂れ、瞳を閉じた。
 
『お願いです、お願いでございます、これを、教皇様へ!』
 そう叫ぶと同時に教皇庁の前庭に駆け込み、倒れ込んだ男の姿が目に浮かんでくる。貧しい身なりの痩せたその青年の手には、嘆願書が握りしめられていた。たまたまその光景をバルコニーから見ていたセレスタイトが、すぐに医師を呼んだが、その甲斐もなく彼は還らぬ者となった。嘆願書には、自分がスイズ東部の農村からやって来た事と、村の様子が書かれていた。ダダスとの戦いの為に、農閑期でもないのに村の男は徴集され、思うような畑が作れなかったうえに、悪天候による不作も重なっている、それなのに税は軽減される気配もない。働き詰めた女や子どもたちの中には過労死するものや、餓死する者までいるという悲惨な村の様子が切々と綴られていた。
『この若者が、徴兵されず村に残っていたということは、体に不具合でもあったのでしょう。荷物の中に、薬草が入っていましたから』
 彼を看取った医師はそう言った。彼が命を賭けて持参した嘆願書を巡って、昨日、教皇庁では話し合いが行われていた。セレスタイトは、これをきっかけとして、スイズとタダスを停戦させ、特に徴兵率が高く、被害が大きく出ている地域の村には減税処置を取るよう両国に命令すべきだと提案した。が、伯父ジェイド公は、今まで通り、注意として各王室へ文書を送るのみに留めるべきだという。他の枢機官たちも、教皇庁が他国の政治に介入することに難色を示す者が多い。スイズ寄りの見方をしている者は、スイズとダダスの戦いは、間もなくスイズの勝利で終わるはずだと確信しており、口にこそ出さないものの、今頃になって停戦を求めることは、スイズに取っては、極めて理不尽なことだと思っていた。反対にダダス出身の枢機官は、願ってもない事だと思い、セレスタイトの案に賛成したが、それは枢機官たちの間に、本来では持ち込んではならぬそれぞれの出身国の感情を表面化させてしまうことになった。
 心を穏やかにするために聖堂に来てみたものの、結論も出せず、心も晴れぬままに、セレスタイトは自分の執務室に戻った。
 あれこれと雑務を処理していると、ジェイド公がやってきた。
「昨日の事が気になってな。どうもお前は納得していなかったようだから」
 ジェイドは、低くゆったりとした声でそう言いながら、セレスタイトの前の椅子に腰掛けた。
「結局、見舞金を出して、あの青年の屍と共に故郷に送り出すことしか出来なかった。あの若者は、何のために命をかけてここに駆け込んだんです? 他国の政治に口を出すべきではないとは思うけれど、最近のスイズのやり方は強引すぎやしませんか?  ダダスとの戦いのことにしたって……」
 セレスタイトは、伯父の顔を見るとつい押さえていた感情が露わになった。
「もうじき戦いもスイズの勝利で終わる。そうすればそれからは教皇庁の出番だ。調停の場をすぐに設ければ良いのだから。勝利国となったからには、民もその恩恵に預かることもできるであろう」
「もうじきって何時なんです? 民は今、この瞬間にも死に瀕しているのですよ。もう温かくなって、随分なるというのに、男たちは兵に取られたまま、このままでは秋の収穫など望めません。それにスイズはよくても、ダダスの民はどうなるんです? 今すぐに停戦もしくは休戦に入るべきです」
 セレスタイトは、いつになく強い口調で言った。ジェイドは困ったような表情を見せた後、話を切り替えようとした。
「まあ、落ち着きなさい。……時にセレスタイト。チラリと皇妃から聞いたのだが、新しい法衣を作らせているとか……」
 それが新教皇冠授与式の為のものを示唆するようにジェイドは言った。話しが途切れてしまったことに対する不満を顔にしながらも、セレスタイトは小さく頷いた。
「そうか、やはり、そうであったか。教皇様もついにご決断されたのだな」
 ジェイドの顔に思わず笑みが浮かぶ。
「ですが、まだ口外はなさいませんよう。私も父もクラヴィスの事を諦めたわけではないのですよ。ぎりぎりまで待つ、その気持ちは変わりません」
「聖地よりのお力の事で、クラヴィスが生きている証拠が判るというが、あれは帰って来ぬではないか? あえて自ら野に下った……と考えるしかあるまい。その方が堅苦しいここでの生活よりも自由で楽しいと感じたのだろう。所詮、酒場女の産んだ子……」
「伯父上!」
 セレスタイトは、思わずジェイドを睨み付けた。
「これは失言。だが、な、セレスタイト。クラヴィスは、お前には随分なついていたようではないか。聖地からのお力がどんなものかは判らぬが、あれもお前に教皇になって欲しいと思ったから、戻って来ぬのだろう。そうだとすれば、その気持ちを察してやったほうがいい。人には分相応、得手不得手というものがあるのだ。教皇として人前に立ち、祝福を与えるなど、あれには不向きだろう?」
 伯父の言うように、クラヴィスの気持ちは判ってはいる……と思うセレスタイトだった。だが、その気持ちを思えばこそ、クラヴィスが、不在のままで教皇になることに躊躇いがある。
「判っています。父上のお体の具合を考えても、秋の収穫祭の頃には……と考えているのです。もしそれまでにクラヴィスが戻ってこなければ……仕方ないと。スイズとダダスの戦いを、この公布によって祝いの為に休戦させる目的もありましたが……」
「今となっては、もう戦いも終わろうというもの。むしろ、終戦後、この公布をした方が、明るい話題を民にもたらし、活力を与えるだろう。祝いとして、民への減税をしてくれるよう、スイズ、ダダスに申し入れれば良い。お前の評判も一気に上がるであろうし」
「私の評判などはどうでもいいんです。けれど、良い方向に持っていけるのは嬉しいことです」
「うむ。お前が新教皇になれば、私も心から支えとなるぞ。共に、この大陸の和平の為に尽くそう。その為にもお前自身の体も大事にせんとな。最近、随分痩せたではないか? 皇妃も心配していたぞ。多忙なのは判るが、たまには皇妃たちと一緒に食事でも取るがいい」
 ジェイドはセレスタイトの肩に優しく手を置いて言った。
「ええ。私もそう思って、今宵は父上たちとご一緒する約束があるのです。そうだ、伯父上もご一緒にいかがです?」
「ありがとう。だが、これから自領に戻らねばならぬのだ。私もスイズ国王からお招き頂いているのでな。お身内と数名の大貴族だけの些やかな宴でな。上の王子の何かの祝いだそうだ」
 小規模とはいえこんな最中に宴とは……と思いながらも、セレスタイトは、良い機会だと思い、「それならば、あくまでも世間話として、この度の青年の一件をお話しくださいませんか? 祝い事の席に無粋とは思いますが」と提案した。
「ああ。判った」
「それと、リュミエール王子のこともお聞き願えますか?」
「末の王子のことか……」
「こちらからも気に掛けて情報を集めてはいるんです。頂戴していた文も途絶えて久しい。拉致が本当だとしたら、ダダスからは何らかの申し入れがあってもよさそうなものでしょう?」
「私が聞いた話では、見せしめのために即日、処刑され、その屍は野にうち捨てられたとか。形見の品である竪琴だけは奪い返してきたともいうが……」
 それを聞くとセレスタイトは、瞳を閉じ、首を左右に振った。
「そんなこと信じませんよ。彼はただ学徒としてルダに参っていただけであるのに。彼の竪琴の演奏をもう聴けないなどと思いたくはない。きっとどこかで生きて捕らえられていらっしゃると思いたい」
「お前が気にかけていたと、王家の皆様にもお伝えしておこう」
「ええ。伯父上、ありがとうございます」
 ジェイドは立ち上がると、セレスタイトに一礼し退出した。
 
 扉を閉めた後、ジェイドはホッとしたように微笑んだ。ついに新教皇にセレスタイトがなるのだと思うと自然と口端が上がる。後はクラヴィスが戻って来ないことを祈るばかりだった。もし戻ってきたとしてもそれなりの手は打ってあった。教皇庁の門前には、密かに見張りを置いてある。どこにいるかも判らないのをやみくもに探し回るよりは、そこでクラヴィスが戻ってきた時に、捕らえて亡き者にしてしまう方が話が早い。クラヴィスから文が送られてきた場合にも手は打ってあった。教皇庁に届く文を最初に受け取る者たちは、総て自分の息の掛かった者と入れ替えさせていた。いずれにしても、この四年近く、それらの見張りが功を奏したことはなかった。もちろんこれから先も、クラヴィスに対しては気を配らなければならないが、第 一枢機官になってしまえば、庁内に館を持つことも出来、衛兵や事務官など人事面での動きを一手に管理することも可能となる。
“クラヴィスが、まだ生きているはずだと、言われた時には、肝が冷えたが、ようやく……”
 そう思うと足取りも軽くなるジェイドであった。

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