１７

　　ジェイド公が去った後も、セレスタイトは、執務室に籠もり仕事をし続けていた。やがて仕事の終わりを告げる五時の鐘が、いつものように鳴り響く。隣室の執務官たちが、挨拶にやって来る。セレスタイトが、労いの言葉をかけると、最後に残った 執務官の長が、まだ席を立とうとしないセレスタイトに、気を使う素振りを見せた。
「今宵は、父たちと食事を共にすることになっているのだ。約束の時間まで少しあるから少し本でも読んでから、父上の部屋に向かうことにする。お前はもう下がっていいのだよ」
「さようでございましたか。それでは、失礼いたします」
　彼が去り、一人になったセレスタイトは、本を手に、窓際に移動し、長椅子に横たわるように深く腰掛けた。夕刻になると体がだるい日々が続いている。胃の辺りにある鉛の玉のような感覚が、重く熱く感じられる。一旦、本を開いたものの、室内が暗く感じられて、灯りをつけようとセレスタイトは立ち上がった。その時、槍で突かれたような激しい痛みを 胃部に感じ、思わず机に手を突き、しばらくの間、痛みが治まるのを待った後、なんとか灯りをつけると、セレスタイトは長椅子に倒れ込んだ。
　浅く早い呼吸を繰り返しながら痛みに耐え、ふと窓の外の夕刻の空に、彼は目をやった。赤く染まった雲の色が夜の訪れに飲まれて刻々と形と色を変えてゆく。それを見ていると胃の痛みもやや治まってきたように思え、セレスタイトはしばらくの間、ただぼんやりとその風景を見続けた。ややあって、辺りは随分暗くなり、空の赤みは完全に失せ、薄紫の空が広がり、一番星が輝き出 した。そろそろ父との約束の時間になった頃だと思ったセレスタイトは、ゆっくりと体を起こした。胃の痛みはまだ続いているが、何か少しでも食べた方が痛みも落ち着くだろうと、一旦、窓枠に手を掛けて立ち上がった。心地よい風が吹いている。そして、思わず、ふう……と深呼吸し見上げた空に……。
「！」
　セレスタイトは見てはならぬものを見てしまったように、それから目を逸らし俯いた。そして幻を見たのだと自分に言い聞かせ、再度、顔を上げた。
　そこに、聖地が輝いていた。
“いつからだ、いつから見えていた？　少なくとも一月ほど前に、父と食事を共にし、夜空を見上げた時には、見えてはいなかった。あの時、父は、自分ももうほとんど見えないのだと言っていた、いつもなら、あの大木の真上に見えるのだがと言って……”
　ここ何週間かは特に疲れが激しく、職務の終わった後は、私室にすぐに戻り、夜空を見上げることもなく、食事もそこそこに床に着く日々だったのだ。
　何度も目を擦りセレスタイトは、その木から真っ直ぐ上の位置に輝く星を見た。他の星とはあきらかに違うから、見えればすぐに判るのだ……と父が言っていた聖地。
　幼い頃から、ただ純粋に見たい見たいと願い続けていた聖地が、今、セレスタイトの目に映っている。思わず跪いて祈りを捧げたくなるような神々しさ。
「ああ……なんて美しいんだろう……」
　ふと漏らした自分の感嘆の声に、セレスタイトは、ハッとする。
「私にこれが見えているということは、クラヴィスは……、では、クラヴィスは……」
　額に汗が滲んでくる。心臓が早鐘のように高鳴っていく。
「父上に、お伝えしなくては……」
　いつまでも窓辺に立って見続けていたい衝動を抑え、セレスタイトは、父の元に急ごうとした。その時、また彼の胃に激痛が走った。同時に、喉の辺りに詰まりを覚え、激しく咳き込む。
「ぐ……っ」
　と喉の奥から迫り上がってくるものを押さえきれずに、セレスタイトはその場で吐いた。吐くものなどたいしてないはずだった。まだ陽が上がりきらぬうちに、少量のスープしか今日は食しておらず、その後は、二度ほど果物を摺り下ろした飲み物を飲んだだけだった。
「うう……」
　押さえ込んだ口元から大量の赤いものが溢れ出てくる。錆びた鉄のような臭いがしている。セレスタイトは自分の吐いた血の溜まった床の上に膝を突いた。もう一度、今度は背中から刺されたような激痛が彼を襲う。もう座っていることさえも出来ず、セレスタイトはその場に倒れ込んだ。遠くなっていく意識の中で、セレスタイトは自分の死を初めて直視した。
“けれど、それならば何故……聖地が見えるのだろう？　ああ、そうか、死ぬから見えるのだ、人はその死の間際、聖地を見ることが出来るのだ、たぶん。今まで生きたことを労るように、聖地が、その姿を見せて下さるのだ……きっとそうに違いない。ならば……クラヴィス、お前は無事なんだ よな……よかった”
　セレスタイトは、安堵し、目を伏せた。だが、完全に意識を手放したわけではなかった。死を覚悟しながらも、今一度、父と母に逢わねば……と微かに思う気持ちが残っていた。
　
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