第七章 光の道、遙かなる処

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  クラヴィスの体には、その時の傷跡が幾つか残っている。さほど目立たぬものから、深いものまで……。 右腕の傷は、骨が見えるほどの深い怪我の跡である。何年も過ぎた今でも、僅かに違和感が残り、痛むこともある。
「意識を取り戻したものの、怪我をしていて動くに動けず、私はそのまま、その家で厄介になり続けた。私を助けてくれたのは、ラーバという東の鉱山地帯で働いていた元鉱夫だった。年老いて、鉱夫を辞めた後、 山に移り住み、女房と二人で 織物を売ったり、山菜を採ったりして生計を立てていると言っていた。目覚めて、何者であるかを聞かれた時、私はとっさに偽りの名前を、彼らに伝えようとした。けれど、 二人とも既に私の名前を知っていた」
 クラヴィスは、傍らの破れかけた布の鞄を指し示した。端に名前の刺繍がしてあった。色褪せて、汚れてはいるが優美な書体の、細やかな刺繍であるのが判る。
「ある日、町に出たラーバが、私らしい人物を探している武官たちを見た、と言って慌てて戻ってきた。報奨金まで掛けていると 。遺体の情報でも、金を出すと言っていたらしい」
「そのじいさん、よくその場でお前の事を言わなかったもんだな」
「怪我をして動けない私は、それこそ手取り足取り世話になっていて僅かの期間だったが、情が移っていたんだろう。後で聞けば、ラーバは、早くに息子を亡くしていたそうだから、よけいに……」
「じいさんには、教皇の息子だと言ったのか?」
 スモーキーがそう聞くと、クラヴィスは左右に首を振った。
「だろうなァ……。言えるわけないか」
「ただ持ち物や身なりから、スイズの出であることはばれていた。言い淀んでいると、ラーバたちが勝手に、家督相続の末、嫡子たちから疎まれて命を狙われでもしたのかと言ったので、頷いてしまった」
 それを聞いたスモーキーは、リュミエールの方を見て、“しょうがないなよなぁ”と言うように小さく笑った。そして、「それから、鉱夫になった経緯は?」と聞いた。
「年が明け、なんとか歩けるほどには回復していたが、痛んだ家の修理を手伝うことを条件に、温かくなるまで、私は二人に世話になった。その頃には、もう教皇庁には戻らない決意が固まっていたし、身元も名前も隠して生きていくには、鉱夫になるしかないだろうと思ったから、春になって、私は西の教皇庁管轄地へと向かった」
「温かくなれば、農閑期の間、一時的に鉱山に働きに出ていた者は村に戻る。そうすれば鉱山では人出が不足するから、どんな人間でも無条件に雇い入れるからな」
 スモーキーは、ルヴァとリュミエールにそう説明した。
「東の管轄地ではなく、西を選んだのは、その武官たちがまだ私を探しているかも知れないと思ったからだ。西はスイズの息が掛かっているが、人の数も多いと聞いたので。偽名を使わずにいたのは、クラヴィスが、ヘイヤ人としてはありふれた名前だと思ったからだ。同時に鉱山に入ったものに同名の者が二人ほどいたから、かえって紛れるだろうと。それと……」
 クラヴィスはそこで、少しの間、黙り込んだ。そしてフッ……と情けなそうに笑った。
「名前まで失いたくない……そんな気持ちがあったのかも知れない」
 クラヴィスはそう言うと、スモーキーを見た。名前まで捨ててしまったスモーキーを。
「おっと。俺だって潔く捨てた訳じゃないぜ。最初は、字も読めない、こ汚い鉱夫たちをバカしていた。そんなだから現場の生活に馴染めず、覚えたての酒と、当時、鉱夫仲間で流行出した煙草に逃げるようになる。酒はともかく煙草は贅沢品だ。仕送りをしている家族持ちには手が出ない。それを吸うことで、今まで俺を嫌っていた連中が、 俺の煙草の吸い殻を貰おうとへつらってきたのが小気味よくてな。今から思えば、馬鹿馬鹿しいことだが、煙草を吸うことで箔が付くみたいに思ってたんだな。そのうち、 中毒になっちまって、手放せなくなって四六時中、吸ってるもんだから、体に臭いが染みついてな、ついたあだ名が、スモーキー。ざまあねぇよ。まあ、貴族っぽい本名よりその方がなんとなく都合がいいと思ったしな」
 スモーキーは、決まり悪そうに頭を掻いて言った。
「今は、ほとんど吸ってないんじゃありませんか?」
 ルヴァに言われると、彼は頷いた。
「完全にやめたってわけじゃないんだ。何本かはいつも持ち歩いてるけどな。大きな事故があったって言ったろ。その時から、憑きものが落ちたようになったんだ。せっかく助かった命、誰かを犠牲にして助かった命だ。……自分を大事にしなきゃ勿体ない、申し訳ないって、な。それに、助かった連中の中には、手や足を失ったものも多くいた。命は助かってももう鉱山では働けず故郷に帰るしかない。その路銀さえままならない連中の横で、 お気楽に煙草なんか吸えないだろう。まあ、そんなことで煙草は止めても、一度浸透した呼び名はそのままで、今に至る訳さ。だから、潔く本名を捨てたわけでもなんでもないんだ」
「本名は、なんと仰るんですか?」 
 何気なくルヴァに尋ねられると、スモーキーは、子どもが難しい問いかけをされ緊張したように肩を竦めた。
「言わねぇよ。なんだか、こっばずかしいじゃないか。それに本当の名を知ったところで、俺の事をその名では呼べないだろ? 俺が、お前たちを、今更、クラヴィス様だのリュミエール様だのって呼べないのと同じように」
「あー、それはそうですねぇ。クラヴィス、出来れば、私も貴方を様付けで呼びたくないですよ。なんだか遠い人になったしまった気がしますからねぇ。ああ、リュミエール、貴方は最初から、クラヴィス様とお呼びしていたんですから、気にしないで下さいよ」
 ルヴァはにっこりと笑うと、まだ少し固い表情のままのリュミエールに言った。
「あ、は、はい……」
「スモーキーもルヴァも、今まで通りに呼んでくれ。それに私は、教皇庁とはもう無縁にすべき人間なのだ」
 クラヴィスがそう言うと、リュミエールは小首を傾げた。自分の家族のように王座を巡って仲違いしているわけでもなく、正妃、寵妃の諍いがあるわけでもない。ましてや、クラヴィスの父は、慈愛に満ちあふれた教皇であり、兄は、あの優しく気高いセレスタイトである。クラヴィスに対して陰湿な態度が取られたとは思えない。 ジェイド公から命を狙われたというのも解せない。リュミエールは、心の中に次々と浮かんでくる疑問を、口に出来ないままでいた。 

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