第六章 帰路、確かに在る印

 2


 夜風に吹かれて、小さな鉱山町の片隅にある酒場へと、クラヴィスは急ぐ。店の中は、いつも鉱夫たちでごった返している。非番の前日は、浴びるほどに酒を飲み、金に余裕のある者は、女を誘い、二階の個室へと移るのが彼らの愉しみだった。クラヴィスは、酒を注文もせずに、まっすぐに二階へと向かった。彼に気づいたある女が、別の客の酒の相手を切り上げた。持っていた酒瓶をテーブルの上に置いて、「悪いねぇ、ちょっと待ってて。時間帳に記入したらすぐ戻るから。女将さんったら、時間には うるさいからさ」
 時間帳……客が部屋に入った時間を記し、帰る時に精算する。長居すればするほど料金は高くなる。
「クラヴィスか。どうせヤツは泊まりだろう? けどよ、アイツもまだ若いのに、なんでいつもガネットみたいな年増なんだ?」
 男が、そう言うと笑いがドッと起きた。
「ふん。クラヴィスはね、私のテクにメロメロなのさ」
 ガネット、と呼ばれた女は、肉付きのいい腰に手を当てて陽気に笑いながら言った。
「なあに、ヤツは、まだ、おっかさんが恋しいのさ。俺から見りゃ、まだまだヤツも子どもだ」
 別の初老の男が、からかう。
「おっかさんだなんて失礼だね、そんなに歳取っちゃいないよ。クラヴィスとなら、ちょっとばかし間の空いた姉さん、ってところさ」
 ガネットは、澄ました顔でそう言い、男たちのテーブルから離れて、クラヴィスを追った。二階の奥にあるガネットの部屋は、客が共同で使う洗面室と、掃除道具の入った物置に挟まれている。他の女たちの部屋よりも古参である分、広い。だが、優遇されているのではなく、新しい若い女が入る度に、端へ端へと追いやられた結果なのだ。
 ガネットが、部屋に入ると、クラヴィスは、慣れた手つきで、脱いだ上着を、戸棚に掛けている所だった。
「そろそろ来る頃かなと思ってたわよ」
 ガネットは、クラヴィスが、部屋に入った時間を台帳に記しながら言った。
「ああ……」
 クラヴィスは、曖昧な返事しかしない。それは、いつものことだから、ガネットはまったく気にしていない。
「じゃ、私は一旦、下に戻るからね。後、一時間くらいかな……酒場が閉まるまで。ま、いつも通り好きにやってて」
 ガネットは、笑いながらそう言い、クラヴィスの顔色をチラリと確かめた。暗い照明の中で、尚一層いつもにも増して顔色が悪い。
“今夜も、辛い夜になりそうね……”
 ガネットは、ひっそりと溜息を付き、階下へと戻った。
 
 やがて夜も更け、一階の酒場が店仕舞いした後、女たちは、それぞれの客を引き連れて二階へと向かった。ガネットも、クラヴィスがいる自室へと戻る。彼女が扉を開けると、部屋の灯りは、サイドテーブルの上にある小さなランプだけになっており、クラヴィスが 既に眠っていた。 ガネットは、そっと壁際の鏡まで歩くと、髪飾りを取り、髪を梳かし始めた。そして、夜着に着替え、テーブルの前に座ると、水差しから水を注いだ。ふと見ると、隣の椅子の上にクラヴィスの荷物が無造作に置いてあった。いつも彼が持っている布製のすり切れた古い鞄だ。蓋が開いて、 賃金の入った皺だらけの封筒が飛び出ている。 ガネットは、それを押し込んで直してやった。
 クラヴィスが、ここに来るようになって、一度だけ、中に何が入っているのだろうと、彼が寝ている間に、その布鞄を開けて見たことがある。この風変わりな若い男へのちょっとした好奇心だった。
 幾ばくかの金、鉱山の採掘現場の通行証、皺だらけの封筒は、賃金が入っていたものを再利用していて、宛先は、東の辺境地帯になっている。この男の実家なのだろう、父親に仕送りしている らしい。 それから、金色の枠がついた紫水晶の宝飾品……傷だらけの垢抜けないものだが鎖だけは真新しい。これは母親の形見なのかも知れないわ……、とガネットは勝手にそう思った。鉱山で働く男の持ち物としては、どれもさして珍しいものではなく 、ごく当たり前のものだった。だが、どうにも不釣り合いなものがひとつ、鞄の中に入っていた。一冊の古い手書きの本だった。難しい字は読めないものの、聖地や、教皇についての記述がしてあることくらいは ガネットにも判る。考えた末、 ガネットは、彼は、信仰の厚い男なのだろうということで、納得することにした。
 
 ガネットは、クラヴィスの寝顔を見つめた。寝ているのに眉間に皺がよっている。時折、苦しそうに呻ている。声はまだ小さい。
 クラヴィスが、泊まりに来るようになってから、もう二年ほどになる。初めて、彼が、ここにやって来た時の事を、ガネットは思い出していた。冬の寒い日だった。暗い目をして、辛そうだった。朝が来るまで休ませて欲しい、夜中に魘されるだろうけれど、いつものことなので気にしないで欲しいとだけいうと、有り金を全部テーブルの上に置いたのだった。 ガネットには 、指いっぽん触れず、大きなベッドに倒れ込むようにして入ると、そのまま眠りに落ち、明け方まで唸り続けた後、大声で叫んで、汗だくになって目を覚ましたのだった。翌朝、問いただした彼女に、クラヴィスは、定期的に悪夢を見るのだとボソッと告げた。鉱夫たちの寝泊まりする部屋では、皆に迷惑がかるので、これからも泊まりに来てもいいだろうか……と告げた。何もしないで金を貰えるのなら、 ガネットにとっても楽が出来る。それにクラヴィスのような若い男の客が付いたとなれば、自分をおばさん扱いする若い新入りの女たちを見返すことだって出来る。こうして最初は損得だけで承知したガネットだが、次第に、この男の事が、心から気に掛かるようになってしまっていた。
「まったくねえ。この私が目当てで来たんじゃない。この部屋が一番奥で、洗面室の隣で、多少やかましくしても大丈夫だったからさ。別に私じゃなくても誰でも良かった、、口が堅い女なら。憎たらしい 男だわねえ」
 ガネットはクラヴィスの寝顔に、微笑みながら毒づいた。そして、彼の額の汗をそっと拭ってやった。最初の頃こそ、揺すり起こそうとしたり、手を握りしめたりして宥めようと試みた彼女だったが、どんなことをしてもクラヴィスは起きなかったし、朝方まで苦しみ続けた。
 さっき酒場で男が言った“おっかさんが、恋しいのさ”という言葉が、ふと、ガネットの脳裏に蘇った。失礼だと言い返したものの、それはあながち間違いではないかも知れない……と彼女は思う。 クラヴィスに対しては、恋愛感情というよりは、母性本能に近しい感情の方が勝っている。それに……。二十五歳くらいだろう……というのが、皆の言う彼の年齢だった。長身であることや、どこか醒めたような雰囲気がすること、そして、他の若者のように、覚えたての酒に飲まれるほどに羽目を外したりはせず、店の片隅で自分のペースでゆっくりと飲んでいる様から、ガネットも最初はそう思っていた。
 彼が月に一、二度、“悪夢の一夜”をやり過ごすために訪れるようになってから、苦しげに眠る顔や、朝の起き抜けの気の抜けたような様、そして何かの折に、ふと見せるほんの少しだけの笑顔に、クラヴィスはもっと若いのではないか……と思うようになっていた。もしかしたら、成人の儀さえも越していない、大人な酒の飲み方などをしていたのではなく、本当にまだ酒の味などわからず、飲めない……といった方が正しいような年なのではないか……と思うようなっていた。

“鉱山なんかで働く男は皆、心にも体にも傷のひとつやふたつは持っているものだけど、クラヴィスは、どんな大きな傷を抱えているんだろう。こんなに魘されるほどに……”

 ガネットは改めてクラヴィスの寝顔を見つめた。その時、魘されながら、クラヴィスの唇が動いた。途切れ途切れに小さな声で、言った。
 “あにうえ……”と。
 彼女は驚いて、手を止めた。
“兄上……だって? 鉱山に流れて来るような男が、兄上だって? アニキとか、兄ちゃん、だろう、普通……。まったく、あんた、一体、何者なんだい?”
 いつかこの男の口から、その生い立ちを聞き出してやろうと決心し、 ガネットは、母親が、熱に苦しみながら眠る子どもを労るような手つきで、寝乱れて鎖骨が露わになった襟元を 、そっと直してやった。

■NEXT■

 

 読みましたメール  あしあと ◆ 聖地の森の11月 神鳥の瑕 ・第二部TOP