眠気の来ないままに、一時間ほど過ぎた頃、リュミエールは隣にいるルヴァに思い切って声をかけた。
「ルヴァ……様?」
その小さな声に、ルヴァは、すぐに反応した。
「あなたも眠れないんですね?」
「はい……」
「少し……話しましょう」
二人は、そっと起きあがると、暗い坑穴の中で目を凝らして、なんとか岩壁伝いに、外に出た。星明かりのおかげで、外はずっと明るい。
「ルヴァ様、さっきのゼンの言ってた事……私がダダス側に拉致され、殺されてしまったなどという根も葉もない噂は……」
リュミエールは、すぐに気になっていたことを切り出した。
「私の不在にルダの兵士が、驚き騒いだとしても、私付きのあの文官が、否定すれば済むことです……。それを、文官は否定しなかったようですね。私は……私は、また利用されて……」
「ええ。リュミエール。おそらく……。ルダ城中にいるあなたに何かあったなら、それは警護にあたっていたルダの兵士の責任も問われますから、それを理由に城内をスイズ兵士で固めてしまえるでしょう。事実上、もうルダ城は、スイズのもの……。貴方の弔い合戦だと言われれば、スイズ軍の士気も上がるでしょうし……」
「さっきからずっと考えてたんですけれど……。そんなところに私が、何事もなかったように戻って来られては困るんじゃないでしょうか……王都に入るのに、検問所が幾つも出来たらしいですから、そこで私を捕らえるつもりではないかと思うんです」
「捕らえる?」
「スイズとダダスの戦いに決着が付くまで、どこかにあの文官の手によって誰も知らない所に拘束されるのでは? ふふ……今までだって軟禁されていたのと同じですけれど。拘束……で済めばましかも知れません。命さえ。私は屍となった方が、事実関係が有耶無耶になって、よけい好都合かもしれない。今回の噂、あの文官の一存で流されたものではないでしょう。彼は中の兄上……アジュライト兄様の腹心です。きっと兄上からの指示です」
「悪い方に考えるのはよしましょう」
ルヴァはそう慰めたものの、リュミエールの考えを否定しきれない。ダークス搾取を隠蔽するために、鉱夫を一掃して亡き者にしようとした経緯を考えても、むしろ、リュミエールの考えの方が当たっていると思えてくる。
彼は
、言葉の続きが出ず考え込んだ。沈黙の後、リュミエールが意を決して、「ルヴァ様、私は、ルダ王都に戻りません」と言った。
「戻らない? で、では、スイズに戻るつもりですか?」
リュミエールは、首を左右に振った。
「いいえ。スイズに戻っても同じこと。兄上たちの手の内に直接入れば、よけいどうなることか……」
「では、どこに行こうと言うのですか?」
「たったひとつ、私が決して命を奪われることがない処……教皇庁へ」
「教皇庁? 教皇様の元へ?」
「ええ。教皇様ご一家とは、演奏会を通じて面識があります。特にセレスタイト様からは、ルダ音楽院に留学中も、季節のお便りを頂いていました」
「セレスタイト様?」
「教皇様の第一皇子様です。ご尊敬できる立派な方です。事情をご説明申し上げれば、きっと私を匿って下さいますでしょう」
「けれど、それでは、スイズにとっては不都合なことになってしまいますよ。貴方のお身内からみれば、裏切り行為とも……」
「いいんです……。私は、スイズの王子であることよりも、ただの楽師として生きたい。教皇様の元で、聖地に祈りを捧げ、皆に竪琴を聞いて頂きながら……静かに暮らしたい」
リュミエールの言葉に、ルヴァはやるせない気持ちになった。まだ十五歳の少年が、ひっそりと隠者のように生きるのを望んでいることに。村の為に文官を志し、一心に良い成績を修めることだけに努めていた頃の自分の姿と、リュミエールの姿が重なっていく。けれども、ルヴァは、自分が温かい親や村人の中で、
期待され、大切にされて育ったことが、どれほど幸せなことだったかを改めて思った。
「リュミエール、実は、私は貴方を羨ましいと思っていました。ご家族内のごたごたがあったとしても、衣食住に不自由もなく、それこそ有り余る財力の中で、望むだけの書物が得られ、理由はどうであれ、好きな分野の勉学に打ち込める貴方が。けれど……」
そこで、ルヴァは、リュミエールの手を取った。
「私は貧困の中で育ちましたが、命を物のように扱われたことは一度も誰にもありませんでした」
静かな怒りを込めた声が、リュミエールの心にずしり……と響いた。
「ルヴァ様……」
「教皇庁に一緒に行きましょう」
ルヴァは、リュミエールの方が戸惑うほどに、力強く頷いた。
「それでは、文官としてのお役目が。休暇届けの期日が過ぎてしまいます」
リュミエールの言葉に、ルヴァは小さく首を振った。
「とてつもなく不幸な形で、私に付いていた足枷が取れてしまいました。足枷……とは言葉が悪いですけれども。もう私には、守るべき故郷も、楽な老後を送らせてあげたかった両親もいません。これから先、どのように生きようと私の自由です。文官を辞めて、本当にしたかった事……また奨学金を取って大学に戻り好きな歴史を学んだり、小さな学校の教師になってもいい。たとえ、自堕落に奔放に生きようとも、もう誰の事も考えないでいいんです」
そこで、ルヴァの脳裏には、三年後、自分に恥じない生き方をしているなら逢いに来て欲しいと告げたフローライトの姿が映った。ルヴァは、視線を地面に落とした後、すぐに顔を上げ
、言った。
「今は、貴方を教皇庁に送り届けることを、私の目標にしましょう。貴方は、私の最初の教え子なんですから。そして大切な友人です
。もうこれ以上は誰も失いたくありませんからね」
「ありがとうございます、ルヴァ様……」
リュミエールが、ルヴァに頭を垂れた、その時、彼らの背後で低い声がした。
「よう……お兄さん方」
スモーキーだった。
「お揃いで。一人で用を足すのが恐い年でもあるまいに。何をコソコソと話し込んでるのかな?」
スモーキーは、明らかにルヴァとリュミエールに疑心を抱く口ぶりで言った。
「あの……、なかなか寝付けなくてちょっと話し込んでしまって……」
リュミエールがそう言ったが、スモーキーの方は、納得した様子はない。
「ボソボソと喋ってやがったから、聞こえたわけじゃないが、言葉の端々から、深刻な話だというのは判ったぜ。スイズに戻るとか戻らないとか? お前たち、やっぱりスイズの密偵か? だとしたら……」
このまま行かせるわけにはいかない……とばかりにスモーキーは、二人に躙り寄った。自分たちより頭ひとつほど背も高く、力仕事で鍛えあげられた厚みのある体の彼が、目前に迫られると思わず、ルヴァたちは後ずさりした。
「違います、密偵などでは決してありません。本当に私はルダの文官です」
「あんたはそうでも、こっちの坊ちゃんはスイズ人だと言ったぜ? 物腰から見ても裕福な家の出なのは間違いなさそうだ。それがルダの文官の従者だとは、何か事情のある生まれなのかも知れないが、俺たちのことをスイズ城の連中に垂れ込んで報奨でも貰おうって魂胆じゃないのか? それにアンタも、明日をも知れないルダ国の文官でいるより、スイズの役人にでもなっちまった方が得だろう? リュミエールの垂れ込みに便乗して、取り立てて貰おうとしてるんじゃねぇのか!」
「スモーキーさん、貴方は私に、自分たちの事や、村の崩壊した様子を正直に話して下さいました。そのお心に誓って、私たちは、そのようなことはしません。ただ、少し事情が変わってしまいました。私たちはルダ王都には戻らず、教皇庁に向かわねばなりません」
「なんだと? 理由は? 事情が変わったって、ゼンの報告と関係あるのか?」
「は……い。スイズの末の王子が、そういう事になったというので……、教皇様にお伝えしたいことが出来ました。末の王子様のご伝言です。実は、ルダ城で頼まれていたのです」
ルヴァは、慎重に言葉を選んでそう言った。
「何を伝えるって言うんだ?」
「それは、あー……スイズとダダスの戦いの調停に入って下さるように……と」
「教皇庁は、口だし出来ねえさ。他国の政治には不可侵の取り決めがあるからな。戦後処理にしか出て来ない」
「それは判っていますが、末の王子のお命が絶たれたかも知れないとなると、その最後のお願いですから……」
「なるほど……。王子の最後の言葉なら、特例として教皇庁が動くこともあり得るか……。まだ未成年の王子の死だけに、教皇様も黙っちゃいられない……か。うーむ、何か引っかかるが……」
スモーキーは、顎に手をやり、ぶつぶつと呟いた。
「嘘じゃありません、本当に私たちは教皇庁に行きたいんです」
リュミエールは、ルヴァの背後からそう言った。
「判った。そう言うことなら、お前たちの言葉を今は信じてやる。けどな、教皇庁に向かうなら、俺たちが行く方向と同じだ。旅は道連れ……、いや、ハッキリ言って監視の為にも、俺たちと同行して貰うぜ。少しでも怪しい行動を取る素振りが見られたら、その時は……判ってるだろうな?」
スモーキーは、ルヴァとリュミエールの肩に手を回しながら言った。
「わ、私たちも貴方たちと一緒の方が、何かと心強いですし……ね?」
ルヴァは、リュミエールの同意を求めるようにそう言った。
「さあ、坑穴にもう戻れよ。明日は、ここを発んだからな、少しでも寝ておけ」
スモーキーは、二人の背中をポンッと叩いた。
「いけねぇ。俺は、本当に用足しに起きたんだった……先に行ってろ」
そう言うと彼は、木陰へと走って行った。
「ルヴァ様、あの人に嘘を付くのは申し訳ない気がしますね……」
「ええ。けれど、貴方の身分を隠しているだけで、彼を裏切るような嘘は付いていません。旅の同行も、いずれ途中で別れることになるのでしょうし、いましばらくの辛抱ですから……」
「はい」
スモーキーたちの行き先をまだ知らないルヴァとリュミエールは、小声でそう言い合うと、坑穴へと戻って行ったのだった。
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