第五章 月の涙、枯れ果てて

 9


 深夜、リュミエールは寝付かれずにいた。昼間泣いた後、うたた寝してしまったせいで、目が冴えていっこうに眠気が来ない。頭を過ぎっていくのは、良くない考えばかりである。時計の針が、日の出まで後三時間ほどの所を差す頃になって、ようやく眠気がやって来た。 
 だが、浅い眠りの入り口で、リュミエールは、ふいに窓が開けられた感覚に囚われた。
『いたぞ、スイズの末の王子だ!』
『捕らえよ! 人質にしろ』

 ダダスの兵たちが、窓から入ってくる。そして腕を掴まれる。その時、扉が開き、スイズのお付きの武官が入ってきた。武官は果敢にタダス兵と戦い、彼らを切り捨てた。だが、その後、スイズの武官は、リュミエールに向かって刃を向けた。
『末の王子、お国の為、ダダス兵に殺されたことにして戴きます。お覚悟を!』
 切っ先がギラリ……と光り振り下ろされた。
「!」
 声にならない叫びをあげ、リュミエールは飛び起きた。部屋の中は静まりかえっていて、窓もきっちりと閉じてある。夢か……と思うと同時に冷や汗が額に滲んだ。
 ベッドから降りた彼は窓際に行き、僅かに窓を開けた。ひんやりとした空気に深呼吸を繰り返しながら気持ちを落ち着かせようとする。
 だが、乱れた鼓動が整うにつれ、かえってリュミエールの心は、また落ち込んで行った。
 単なる夢として片づけらけないほどにリアルな……、と。
 殺されることも恐ろしかったが、何より、スイズの家族から見捨てられ、戦のための手駒としてしか見られていないことが悲しい。ふと、リュミエールは、今、無理矢理にでもスイズに帰国してしまったら、どうなるだろう? と思った。勝手なことをするな、と父や兄たちは怒りながらも、仕方がないと迎え入れてくれるだろうか……と。
 しかし、その考えを彼は直ぐさま打ち消した。静かに首を左右に振る。タダスとの戦いに決着がつかない限り、スイズに自分の居場所はない……。そして、別に待っている人がいるわけでもないスイズの城に、帰ったところで、今ここにいるのと大差ない毎日だろうと思うと、ますます気持ちは沈んでいくのだった。
 どうしたら心が楽になれるんだろう……溜息をついた時、リュミエールはルヴァの言葉を思い出した。

“人は自分の宿命を受け入れなければならないと思うんです。王の子として生まれたならばそれを、貧困の中に生まれたならばそれを。まずそうしないと決して前には進めないと思うんです”

「スイズの王子としの宿命を受け止めたつもりでルダに留まり、国からの指示のままに過ごして来ましたが……、いつまでこんなことが続くんでしょうか……ルヴァ様」
 リュミエールは呟いた。戦いが終わり、スイズに帰国することになっても、このままでは、すぐにまた国政に利用され、父や兄の言いなりに、どこかの領主の姫を娶らされて一生を過ごすことになるのだろう……と思うと、いつもは温和なリュミエールの心に、自分を取り巻くしがらみに対する憎しみの気持ちが生まれた。
 
“自分の思いとは別の所にあるもののせいで道を変えざるを得ない。その道の途中で歩くのを止めてしまったら、もうそこからは抜け出せません。不運や苦悶……そんなことに耐えながら、心を奮い立たせて歩いていけば、いつかきっと道は開けると思うのです”

 再びルヴァの言葉を思い浮かべた。リュミエールにとっては、ここ数ヶ月、宝もののようにしてきた言葉だった。
“ルヴァ様……”
 顔を上げたその先の低い空が、微かに明るくなっていた。夜明けが近い。ルヴァが故郷に戻る朝の……。
 リュミエールは、ルヴァを見送るための支度をしようと、長い上着を羽織った。帽子を被ろうとした彼は、これがルヴァとともに旅発つための支度だったら、どんなに嬉しいむことだろう……とふと思った。その時、彼の中にあるまだ子どもの部分が、首をもたげた。 育ち盛りの元気な少年が、長い眠りから気持ち良さそうに目覚めるように。
“ルヴァ様といっしょに行きたい!”
 いつも自分の気持ちよりも、周りの事を優先させて行動してきたことの反動が一気に押し寄せてきたようにリュミエールは、その考えに取り憑かれた。
“形だけここに留まっていたら良いだけの存在なら、別に少しくらい留守にしたっていいはず……”
 リュミエールは、机上にあった紙に、『少し見聞を広めるために旅に出ます。すぐに戻ります。ご心配なきよう』と記した。音楽院に通う時に使っていた布袋の中に、差し当たりの路銀になりそうな装飾品の類と小さな携帯用の竪琴 だけを放り込んだ。
 堂々と扉から出て行っては見張りの者に引き留められるだろうと、窓からリュミエールは抜け出した。さして高くはないとはいうものの、窓から外に出るなどとは、彼にとってはもちろん初めての事である。
 それだけのことなのに、リュミエールにとっては、大きな開放感があった。まだ薄暗い小道をそっと抜けて、駅馬車が発着する城門前の広場にと向かう。だが裏門には番兵が立っていた。他にも数名の者たちがいる。城に出入りの行商人に混じって、ルダ音楽院の学生らしい者もいた。大きな手荷物の中から、縦笛が飛び出ている。
「ルダ音楽院の学生です。戦火が落ち着くまで、国に帰るので……」
 先ほどの者が、門番にそう言い通して貰っている。リュミエールは、心を落ち着かて帽子を目深に被り直した。彼の後、行商人が数人、通り過ぎた後、リュミエールは「僕も音楽院の者です」とだけ短く言った。
「荷物はそれだけかい?」
 帰郷するにしては荷物の少ないリュミエールに番兵は何気なしに言った。
「あ、は、はい。先に送り返したもので」
 番兵は頷くと、通っていいと言うように顎をしゃくった。駅馬車などとは無縁の生活をしてきた彼にとっては、とにかく誰かの見よう見まねで行動する他になく、同じように城から出た者たちの後ろをついて行った。広場の外れに何台もの馬車が止まっていた。いずれも馬四頭がホロ付きの荷台を引いている。荷台には形ばかり腰を掛けるための長椅子が幾つか置いてある。
「あのう……南部行きの馬車はどちらでしょうか?」
 リュミエールは、一番南側にあった馬車の御者に声を掛けた。
「南部なら、儂の馬車だよ」
 白い髭の老人はそう答えた。
「もう乗ってもいいんですか?」
「ああ、かまわんけど。出発はいつも完全に夜が明けきった頃だから、後半時間近くは間があるのう。用足しがなければ、好きなとこに座っとるといい」
「それならもう乗っておきます」
 リュミエールは、馬車に乗り込み一番奥の席に座り込んだ。
「音楽院の学生さんかの? まだ学期途中なのに、最近はポツポツと一時帰宅しよるのぅ。早ようスイズとダダスの小競り合いも収まるといいんじゃがのう」
 白髭の御者は、のんびりと煙草を吹かしながらそう言った。リュミエールは曖昧に返事をした後、長上着の襟を立てて、うずくまるように座り込んだ。傍目には、うとうとと寝ているように見えるはずだ。後はルヴァがやって来るのを待っていればいい。誰の了解も得ず、遠くに出掛けるという彼にとっては、大それたことに、今更ながら指先の微かな震えが止まらないリュミエールだった。やがて、一人、二人と馬車に人が乗り込んでくる。辺りもすっかり明るくなっている。だが、肝心のルヴァはまだである。リュミエールは、 彼の姿を必死で探した。御者が馬と荷台の車輪の点検をし、出発の合図であるラッパを一吹きした頃になって、やっとルヴァがやって来た。
「あー、すみません、乗ります、乗りますー」
 古い革の鞄を抱えたルヴァは、空いている荷台の入り口近くの席に納まる。
「南部行き、出るでのう。次の停車は、ガイヤの町じゃよ」
 荷台に座っている十数名の者に聞かせるように御者はそう言うと先頭の馬に鞭をくれた。ゆるゆると馬が歩き出す。城が遠ざかるにつれて、リュミエールの指先の震えは治まり緊張が解けていった。彼の席からは、ルヴァの後ろ姿しか見えない。相乗りしている者同士、「今日は温かくなりそうですねぇ」などという会話がポツポツと出だした所で、リュミエールは 今度こそ本当に眠くなってきた。見ず知らずの者たちに囲まれ、固い木の椅子に座って、随分と荒れた道を揺られながらなのに、数ヶ月ぶりの心地よい眠りになりそうだった。
 
■NEXT■

 読みましたメール  あしあと ◆ 聖地の森の11月 神鳥の瑕 ・第二部TOP