第五章 月の涙、枯れ果てて

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 ルヴァが、故郷のある南部に視察に行く為、しばらくの暇乞いに来たその日の夕方、リュミエールは、身柄の安全の為という名目で、ルダ音楽院の建物にほど近い場所にあった賓客の館から、ルダ王族の居城である本塔の一階にある部屋へと移され ていた。
 王族の住居といえど、その規模や造りは、スイズ王城から見れば比べものにならないほど小規模で、リュミエールの住まうことになった部屋は、スイズでは古参の側仕えに与えられるものと大差ないような部屋だった。古ぼけた壁紙と質素な家具に、スイズから持参した手の込んだ細工のしてある小道具類がそぐわない。

「スイズとダダスとの諍いには、ルダは一切関与せずの姿勢を取っておりますから、ルダ王城内にダダス軍が攻め入ることはないでしょう。万が一、進軍があってもこの塔には手出しないでしょう。ご不自由をお掛けしますが、この状況下です。お国の為を思い、今しばらく 外出はご辛抱下さいますように。ですが、この塔の三階に小さな図書室がございます。そこならば自由に出入りなさってもかまいません」
 リュミエール付き文官は、いつものように冷たい口調でそう言った。
「わかりました……私の身の回りの事は誰に頼むのですか? お前の部屋は?」
 大半の自分付きの側仕えが、スイズに戻ってしまったことはリュミエールも知ってはいる。それでも古参の側仕えや文官が数人は残っていたはずなのに、その者たちはどこに控えているのだろうとリュミエールは思った。
「末の王子様のお世話は、ルダ王族の側仕えが代行してやってくれます。後ほど、挨拶に参るでしょう。私をはじめとして残っている文官や武官は、引き続き、賓客の館を対ダダスへの作戦本部とし使用します」
 “私の世話などしている場合ではない……と言うことなのですね……”
 と言いたいのを堪えてリュミエールは黙って頷いた。文官の去った後、彼は一人部屋に取り残された。窓を開けると裏庭が見えた。ここも、これと言って手入れのなされていないような庭だったが、それでも 、本格的な春を待つ小さな蕾を持った花々の様子が、彼の心を慰めてくれた。

 翌日の午後、リュミエールは、部屋の前に立っていた兵に断りを入れ、塔の上階にあるという図書室に行こうと客間を出た。大きな窓の取ってある螺旋階段を上っていると、そこから差し込む日差しは随分、温かいものとなり、塔の周りの木々に巣を作った鳥たちが鳴く声が聞こえてくる。こうしているとスイズとダダスの戦火のことなど とは無縁に思えるリュミエールだった。
 図書室の中は、彼が思っていたよりも広く、数人の者たちがいた。彼らは、そっと入ってきたリュミエールに気づくことなく、窓際の席で書き物をしたり、本を読んだりしていた。休憩中の文官や側仕え……と言った風情の者たちだった。
 リュミエールは、幾つか並んだ書棚の奥に、興味のありそうな書物を見つけ手に取った。と、その時……。
「なぁ、いいのかねぇ、こんな楽なことで」
「向こうさんがいいって言うんだからかまわんさ」
 さらに奥の書棚に行こうとしたリュミエールの耳に、のんびりとした男たちのそんな声が届いた。特に気に留めることもなく通り過ぎようとしたその時、また男たちが言った。
「あの王子様も不憫なお方だよなあ」
「まるで人質だからな」
 それが自分のことだと、リュミエールは即座に悟った。
「安全の為に、ルダ王族と一緒の塔に……だなんてなあ、王様たちはとっくに、北の離宮に移られているというのになあ」
「人質っていうより、まるで……」
 男の声が一旦小さくなった。リュミエールは、耳を澄ます。
「餌みたいなもんだよな。ダダス軍が攻めてきたら真っ先に、さらわれるか殺されるか……一階の部屋なんてさ。普通、最上階の客間だろう? 兵だって扉の前に一人だけだぜ」
「俺たちルダ兵はこの戦いには関与せずの姿勢を取らなきゃならないんだから、万が一、ダダス兵がやってきても、戦っちゃいけないんだぜ。適当でいい……って言ったんだぜ、あのスイズの文官。自分の所の王子の警護を」
「むしろ、あの王子に何かあった方がいいんだろうよ。そうすりゃもうこれは、リュミエール王子に対する弔い合戦だと大手を振って戦えるからな。教皇庁が、和平交渉に介入した場合、同情からスイズに有利なように事は運ぶだろうし」
 男たちの会話がまだ続く中、リュミエールはそっと書棚から離れ、図書室を出た。
“その通りですよ。私の留学は最初からそのように仕組まれていたことです……。計画通りに上手く事が運んでいる……スイズの父上や兄上にとっては、さぞかし喜ばしいことでしょう……”
 リュミエールは、自室に戻ると、心を落ち着かせようと竪琴を手に取った。つま弾くと、音が少しおかしい。それを調節しようと、一旦置こうとしたものの、テーブルの上にあったスイズからの土産の砂糖菓子が邪魔になる。
 ふいにリュミエールの体にカッと血が上った。押さえきれない苛立ちに、彼は乱暴に菓子の入った箱を払い除けた。星や花の形をした菓子が、パラパラと床に散った。 強く感情を外に出してしまったことに対する自分への驚きと羞恥心に、リュミエールは戸惑い、持って行き場のない気持ちが込み上げた。そして、テーブルに伏して握り拳を作り、声を上げずに泣いた。しばらくそのまま泣き続けた後、リュミエールは、疲れ果ててしまい、うとうととした。そして、随分部屋が薄暗くなってきた頃に、扉を叩く音で目覚めた。
「王子様、夕食をお持ちしました」
 料理係の者の声が、扉の向こうでしていた。泣き腫らした顔や、菓子の散らばった部屋を見られたくない……と思ったリュミエールは、「食事なら今日は不要です。下がりなさい」と言った。
「どうなすったんだい?」
「さあね」
 そんなやり取りがされている声が、リュミエールにも微かに聞こえる。扉の前の兵が交代し、日がすっかり落ちた。ランプを灯したリュミエールは、灯りが作り出す自分の黒い大きな影に、陰鬱な気持ちになった。ルダ音楽院は休校になっていたし、ルヴァは、しばらくの間、南部へ行くと言う。明日も明後日も……一人きりで何もすることがない。ただ部屋の中で、スイズとダダスの戦いの決着を待ちながら過ごす……これから当分はこんな日が続くのだ……と思うと……。
“むしろ、あの王子に何かあった方がいいんだろうよ”
 昼間の男の言葉が、リュミエールの耳にこびり付いている。
“ルヴァ様……早くお戻りなってください……” と、リュミエールは呟いた。ルヴァは、今の彼にとって唯一、心の支えとなっている師であり、友である。
“私ったら……、ルヴァ様はまだ出発すらされていないのに……”
 リュミエールは、情けない気持ちになる。南部までは駅馬車と砂漠馬を乗り継ぎ、往復七日ほどはかかる行路だという。視察を早めに済ませたとしても、ルヴァが戻るまで十日は待たねばならないだろう。久しぶりに故郷へ帰るの だし、南部全体を視察するとしたら一月ほどかかるかも知れない……そう思うと彼の心は尚更、塞いで行った。早朝の出発だから見送りは辞退すると言っていたルヴァの言葉が過ぎったけれども、“やはり明日の朝、お見送りしよう……”と思うリュミエールだった。

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