第五章 月の涙、枯れ果てて

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「あ〜……、それは……その」
「協力してくれると仰ったわ」
「言いましたが……、言いましたけれど、そんなことは……出来ません。貴女が好きだから、大切に思うから出来ません。他の人の元に嫁ぐことになる貴女にそんなことは出来ません」
 ルヴァは、なんとかフローライトを自分から引き離しそう言った。
「では、家を捨ててルヴァ様に嫁ぐと言えば抱いて下さるの?」
「フローライト、貴女は少し気が動転しています。落ち着いて」
「落ち着くのはルヴァ様の方だわ。自分に置き換えて考えてみて。私がこれっぽっちも動転なんかしていないと判るはずだわ。女なら誰でも一度くらい好きな人に抱かれたいと思うものだわ。男の人は違うのもかも知れないけれど」
 フローライトは、きっぱりとそう言うとルヴァを睨みつけた。
「わ、私だって……。男だって、そうです……けれど」
 ルヴァは、かろうじてそう言った。確かに動じているのは自分の方で、さっきからしどろもどろになりつつなんとかこの場を逃れようとしている自分を情けなく感じていた。ルヴァを睨み付けるように見ていたフローライトの視線がふっと弱まり、くるりと 彼に背を向けると彼女は項垂れた。
「ごめんなさい……」
 いくら活発で物怖じしない性格の彼女でも、こんな事を口にするのは勇気のいることだったに違いない……そう思うとルヴァは居たたまれなくなった。ふと、本当に彼女がそう望むなら……という気持ちがルヴァの心の中で強くなった。俯いているフローライトの襟足の後れ毛が、ふわふわと優しげに揺れている。細く白い襟足に触れたい気持ちが抑えられない……。ルヴァはそっと指先を伸ばす。その気配にフローライトは振り向いた。ルヴァの指先が彼女の頬に触れる。ルヴァを見上げた彼女の瞳が、“お願い”と呟いているようだった。ルヴァは彼女を抱きしめた。今度はさっきよりも強く。フローライトはもう何も言わず、ルヴァに身を任せることにした。このまま抱きしめただけで、また体を引き離されても、笑顔で別れが言えるようにと目もとに溜まった涙が流れぬように堪えた。だが、ルヴァは、力を抜かなかった。壁際に置いてある長椅子にフローライトの体を抱きしめたまま座り込んだ。
 遠くで午後五時を告げる鐘が鳴った。歴史書室は、もう随分薄暗くなって来ていた。
「フローライト、やはり私は貴女の望みを叶えることは出来ません」
 ルヴァは静かに言った。
「自分に置き換えて考えてと、貴女は言いましたね。貴女とこの先、長い人生を共に歩いて行くことが出来るのなら、私には迷いはありませんが、そうじゃないのに、貴女を抱くことは出来ません。男としての責任の事を言ってるんじゃあないんです。フローライト……、私は……貴女とそんなことになってしまったら、もう貴女を諦められなくなります」
 フローライトは、ルヴァに肩を抱かれたままその言葉を聞いていた。
“諦められなくなります……”
 その部分だけが彼女の心の中で、何回も繰り返される。
「……そうね……。決心したつもりだったわ。ルヴァ様との思い出を作れば、それを頼りにタダスに帰っても強く生きていけると思ったけれど 、お別れするのがよけい辛くなるかも知れないわね……。砂糖菓子だって、ひとつだけだからと思っても、つい、もう一つだけ……と食べたくなるものだもの。あら……いやだ、変な例えね」
 フローライトは力なく笑って俯いた。ルヴァは同じように微笑んだ。
「もう暗くなってしまいましたね。帰りましょう。特別寮の前まで送って行きますから」
 ルヴァは、フローライトから離れて立ち上がり、彼女に向かって手を差し伸べた。
「ごめんなさい。ルヴァ様。自分が恥ずかしいわ……」
「いいえ。嬉しかったですよ。貴女のお気持ち……。さあ、行きましょうか」
 ルヴァは彼女の手を引っ張って立ち上がらせて、自分の羽織っていたマントの襟元をしっかりと合わせた。
「あ、そうだわ。これをお渡しするのを忘れていたわ」
 フローライトは、ルヴァがマントの襟元を留めている木の枝を加工したピンを見て、そう言った。
「ルヴァ様、これを。どうぞ」
 彼女は、外套のポケットから薄絹に包んだものを取り出し、ルヴァの手に渡した。手の中にすっぽりと収まるほどの大きさ。ほとんど不透明の緑色をした石を、はめ込んだ金色の枠にはごくあっさりとした蔦のような彫り物がしてある。
 


「いつかお話したでしょう。故郷の領内にある遺跡の事。そこで見つかったものなんです、それ」
「それなら、とても貴重なものでは?」
「いいえ。残念ながら遺跡そのものと関係があるものではないの。古そうなものだったから一応、ダダス大学に送って調べさせたのよ。けれど他の出土品と模様の様式も違うって。年末に私が家に帰った時、送り返されてきたの。たぶん、ずっと以前に遺跡を調査していた学者さんが落としたものじゃないかしら。当時の記録から持ち主を捜してみたけれど 該当者はいなかったの。それで父から譲り受けたの。若い女が持つには石の色も地味だし、日の光の下でよく見ると瑕もあるし、無骨な造りだから、欲しいと言ったら父は不思議がったけれど。私、これを見た時、ルヴァ様の事を思い出したの。 穏やかな不思議な緑色をしているなあ……と思って。……もしお嫌でなかったら貰って下さる? 後ろに針が付いてるからマントを留めるのに良いと思うの」
 ルヴァは手の中にあるそれを見つめた。初めて見るのに、彼女が言うように何かしら元々から自分のものだったかのような愛着感が湧いてくる。木の枝のピン留めしか持っていなかったこともあって、ルヴァはそれをとても気に入った。
「ありがとう、フローライト。さっそく使っていいですか?」
「もちろん。私に付けさせて下さいね……、少し顎をお上げになっていてね……出来たわ。ほら、やっぱり、ルヴァ様の目の色と似てるんだわ」
 フローライトは、嬉しそうに言った。
「ルヴァ様、この木の枝のピンは私に下さいな」
「そんなもの……、そこいらに落ちているようなものですよ。故郷の村を出る時に、私がインファの木の枝を削って作ったんですから。器用な人なら何か模様でも彫れるんでしょうけど、私は先を尖らせるのが精一杯でした」
「まあ、それなら尚更欲しいわ。ルヴァ様の生まれた所の木で、自分でお作りになったものよ」
 道端に落ちていても、子どもでさえ目にも留めないような粗末な物を、フローライトは、かけがえのない宝物のように握りしめた。その仕草が愛おしくて、ルヴァは思わず彼女を抱きしめてまいそうになるのを堪えた。その代わりに彼女の手を取った。
「もうじき図書館の管理人さんが鍵を掛けにくるでしょう。出ましょう」
 手を繋いだまま二人は、図書館を後にした。星が仄かに照らす小道を黙ってルヴァとフローライトは歩いた。まだ少し冷たい夜風に吹かれながら。やがて彼女の住まう特別寮がすぐそこに見える所で、フローライトは立ち止まった。
「私、歩きながら考えたの」
 ルヴァとまだ手を繋いだまま、彼女はふいにそう言った。
「何をですか?」
「三年だけ待たせて下さい。三年したら私に逢いにいらして。そして父を説得して下さい」
 ルヴァは答えられなかった。たった三年では、彼女の家柄に見合う地位に就くことなど到底、不可能だった。貴族階級でないルヴァが、どんなに努力したところで、せいぜい第一級文官になれればよい所だ。
「判ってるわ。三年では今とそう変わりない身分でしかないと思ってらっしゃるんでしょう? でも、いいの。三年後、貴方が自分に恥じない生き方をしていて、まだ私の事が好きなら来て下さい。その時、父が反対したら、私は貴方を選びますから」
 今度は絶対に退かない……そんな気持ちが籠もった低い声でフローライトは言った。
「貴女って人は……」
「それくらいいいでしょう。けれど、三年の間に、他に好きな人が出来たら、その人と結婚しちゃうかも知れないわ。その時はごめんなさいね、恨まないで頂戴ね」
 思わず出てしまった自分の重い声を少しだけ後悔するように、フローライトは笑ってそう付け加えた。そう言うことでルヴァの心の負担が軽くなるだろうとわざと明るくそう言ったのだ。
「あー、じゃあ、私も他に良い人が出来て、迎えに行けなくても恨みっこなしですよ」
 ルヴァもそう言って微笑んだ。二人は笑い合っている。だが、胸が詰まり、涙が込み上げてくる。
「ルヴァ様、ここからは一人で戻れます。お元気で」
 涙は見られたくないと思うフローライトは、ルヴァの手を放して、そう言った。
「ええ。貴女も……」
 ルヴァが小さく頷くと、フローライトは長いドレスの裾を持ち上げて、軽やかに走って行った。特別寮の館の扉の中に彼女が消えてしまうと、ルヴァは、大きく息を吐いた。俯いた顎の先が固いものに触れる。フローライトがマントの襟元に留めてくれたくれたあの宝飾品に……。
 ルヴァは、今し方まで握りしめていた彼女の温もりの残っている指先で、その石に触れた。ひやり……とした冷たさが、 ルヴァの心を平常に保てるように、癒してくれているようだった。

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