翌日、ルヴァは文官の執務室で、書きかけの書類を処理しながら、フローライトの事を思っていた。彼女にもしばらく留守にする事を伝えておきたかった。リュミエールの授業のある曜日ではないが、今日も彼女は図書館にいるだろうか……と思いながら時計を見る。
執務室から退室するにはまだ少し早い時間だった。ルヴァは再び書類に目をやった。と、その時、執務室の扉が開き、初老の婦人が、辺りを見渡しながら入って来た。扉付近にいた若い文官が対応に出ている。彼女と二言、三言話した文官は振り返り、ルヴァに向かって手招きをした。
「おーい、こちらのご婦人が御用だそうだぞ」
「え? 私ですか? あ〜、何でしょうか?」
ルヴァが、見知らぬ婦人の元に行くと、彼女は丁重に頭を下げた。
「ルヴァ様でいらっしゃいますね?」
「あ、はい、そうですが……」
「私はフローライトお嬢様付きの乳母でございます」
おっとりとした上品そうな婦人はそう言った。ルダ音楽院に留学している者のうち、身分ある家の者は、側仕えと共に特別寮と言われる館に住まっていた。フローライトもその一人であった。
「お嬢様よりこれをお返しするようにと言付かってまいりました」
そういうと老婦人は、古びた書物をルヴァに差し出した。
「これは……?」
「長々とお借りして申し訳ありませんでした、と」
「は、はぁ……」
ルヴァは、老婦人の言うことがさっぱり判らず間の抜けた返事を繰り返した。手渡された本は、図書館の蔵書である。ルヴァは首を傾げた。図書館の本ならば図書館に返すよう言付ければいいものを、何故……? と。
“私に返しておいて欲しい……ってことですかねえ”
ルヴァがそう思っていると、老婦人は、さらに話し続けた。
「本来ならば、お手渡し一言御礼申し上げるのが当然なのですが、何分、私ども、急遽ダダスに戻ることになりました為、失礼のほどどうぞお許しくださいませ」
そう言って頭を下げた老婦人に、ルヴァは目を見開いた。
「戻られる……んですか? 随分、急に……。あの……何時?」
「このご時世でございますから。昨日、国より急遽迎えが参りまして明日の午後には発ちます」
娘を戦火が拡がりつつある隣国に置いておくことはできないと、ダダスにいる彼女の父親が即刻、馬車を寄こしたのであろうことは容易に察しがつく。
「それでは、私どもは、帰郷の支度をせねばなりませんので失礼致します」
老婦人がそう良い去って行こうとするのを、ルヴァは思わず引き留めた。
「あのう。フローライトさんは……えっと、あの……あの……よろしくお伝えください……」
呼び止めたものの、後に続く言葉の出ないルヴァは、そう言って小さく頭を下げた。
“せめて、彼女が去る前に一目でいいから逢いたいけれど……”
ルヴァは、微かに溜息をついた。フローライトが乳母に使いを寄こしたのは、たぶん急な帰省の荷造りで多忙な為なのだろう、自分に逢っている時間などないのだろう……と思い直して。俯いたルヴァの目に、さきほど手渡された本が映る。
“それにしても……この本は? 私も読みたいと思っていたものだけれど……”
やはり釈然としないままに、ルヴァは、本をパラパラと捲ってみた。中程に紙が一枚挟み込んである。開けてみると、フローライトの筆跡で、こう書かれていた。
『もし間に合えば、いつもの場所にお越し下さい』と。
もし間に合えば……、というのは、何に? とルヴァは考える。
“間に合えば……? ダダスに帰る時刻に?”
いつもの場所というのは、考えるまでもなかった。図書館の奥の部屋、歴史書の保管してあるあの部屋のことだった。
ルヴァは、残っていた書類を書き上げ、図書館へと向かった。数週間前ならばもう辺りは暗くなっている時刻だったが、道はまだ明るい。日が長くなってきたことに春が近いことを感じながらルヴァは、フローライトの元へと急いだ。
■NEXT■
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