第四章 鐘声、それぞれの場所

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 音楽院が冬期休暇に入ると、リュミエールは出掛ける必要もなくなり、館に閉じ籠もって古楽器の練習に精を出していた。そうしている間は、絶えず自分を監視しているような文官や武官も、私室には入って来ようとせず、純粋に自分一人の時間を持てたのであった。
 ルヴァによるリュミエールの特別授業は、ゆったりとしたペースではあるが既に始められていて館にやって来る彼を、リュミエールは、心待ちにするようになっており、 明後日には年明け……という日にも、いつも通りの授業を希望していた。ひとしきり古楽器の練習をした彼は、もうそろそろルヴァが来る頃だろうと思い、二階の私室から一階にある客間へと移動した。広い部屋に置かれた大きなテーブルの片隅に座ったリュミエールは、ルヴァが来るまでおさらいをしようと本を開けた。と、客間の続きにある 側仕えの為の控え室から笑い声が聞こえてきた。
 リュミエールは、そっと隣室との扉まで行くと、耳をそばだてた。扉の上部の隙間から、笑い合う二人の男と女の声がしている。例の文官と護衛に付いている武官うちの誰か、それに古参の料理係の側仕えのようだった。三人とも、元は、中の王子アジュライトの側近くで働いていた者たちだということは、リュミエールも知っている。いつも顰めっ面をしている文官や、無表情な武官らしからぬ笑い声に、何か楽しいことでもあったのかな……と、ちょっとした好奇心での立ち聞きだった。
「もうそろそろルヴァ殿が来る時間じゃないのか?」
 笑い声がいったん途絶え、そう言ったのは武官のようだった。
「いや、まだ少しあるさ」
 そう答えたのは文官だ。
「冬期休暇になって、王子も出歩かれることが少なくなったから警護の仕事も暇だよなあ」
「暇なら情報集めでもしろよ。ルヴァ殿の様子も怠りなく見張るんだぞ。ルダの生まれとは言え、ダダス大学の出身だ。向こうの政府筋との関係が何かあるかも知れないしな」
「判ってるよ。それより、本国の方はどうなんだ? アジュライト様のご様子は?」
「この間の使者からの報告だと、上の王子と王妃様は、年明けの宴を盛大にするつもりで動き回っていらっしゃるらしい」
 文官の鼻で嗤うような言い方にリュミエールは眉を潜めた。
「上の王子の名を売るおつもりだな。大丈夫なのか? アジュライト様は?」
「賢く立ち回っていらっしゃるさ。水面下ではこうして着々とルダとスイズの関係の地固めをしてらっしゃる。暖かくなる頃には、大きな動きがあると見ていい。その為にも、末の王子の言動には注意してくれよ。必要以上にルダやダダスと友好を深められては後々、動きにくいからな」
 “大きな動き……?”
 リュミエールはその言葉に引っかかりを覚える。
「判ってるさ。しかし、何だな、末の王子も、お可哀想と言っちゃあ、お可哀想だよなあ」
 武官が茶を啜りながら言った。
「そうさねぇ、竪琴も勉学も、気性だって優れていなさるけどねえ。これで、母方のお家が良ければねえ」
 側仕えの女が口を挟んだ。母方……リュミエールの母は、地方のごく小さな領にある貴族の出である。しかも嫡子ではない。
「貴族とは名ばかりの家柄だと言うが?」
「そうらしいってさ。末の王子の母君の死後は、手当が与えられて細々とした暮らしぶりだとか。仮にも王子の母君のご実家なのにねえ」
 こういう噂話しは、よく知っているんだとばかり側仕えが言う。リュミエールは扉の向こうで小さな溜息をついた。その事は、乳母を通じて聞かされてはいたので、今更、心を痛めることもなかったし、ましてや逢ったこともない祖父や祖母に対する特別の思いは、今ひとつ湧いてこない。これ以上、立ち聞きをするのは止めようとしたその時……。
「死因は、産後の肥立ちが悪かったってことになってるけど、本当の所はどうだか……って話だよ」
 リュミエールの体がピクリ……と反応する。リュミエールの才能を見つけ、竪琴の名手になるようにと厳しく竪琴を教えてくれた教師が、ふと漏らしたあの言葉が蘇る。
『大陸で一番の竪琴の弾き手の命を奪うようなことは誰にも出来ますまい……』 

「王妃が薬湯と偽ってよくないものを飲ませていたという噂、聞いたことがあるが?」
「あくまでも噂だけどさ。けれど、私に言わせれば寵妃様だってなかなか。まだ産後一月経つかどうかの頃なのに、末の王子の誕生祝いの演奏会を無理矢理、催すよう仕組まれたのさ。何時間も宴の席で気を遣い、竪琴の演奏もされたんだよ。あの時は、同じ女としてどうかと思ったけれど、そんな事を口にした者はすぐにお払い箱にされちまうからね」
「今回の王座を巡っての諍いも、王妃と寵妃が随分と絡んでらっしゃるしな。恐いことだ。まあ、いずれにせよ、私たちはアジュライト様が次期国王になられると信じて、こんなルダくんだりまで出向いてるんだ。せいぜいお役に立てるようにしないとな」
 武官の男がそう言った時、館の玄関の鐘が、カラカラと音を立てた。
「ルヴァ殿が、いらしたようだな」
 武官と文官が慌てて、茶器を置く音が聞こえ、リュミエールは扉の前から力無く歩くと、元の席に戻った。
 
 ややあって、扉を叩く音がし、文官が入ってきた。
「もうここにおいででしたか。お部屋にいらっしゃらなかったので驚きました」
「いちいち呼びに来なくても、授業の時間になればこの部屋に参りますから」
 リュミエールはそう言うと、文官の後ろに立っているルヴァに向かって軽く挨拶をした。
「それでは、私は下がらせて頂きます」
 文官は、先ほど仲間内で話していたのとは違った冷たい口調でそう言うと、ルヴァの為に椅子を引いたあと、出て行った。
「こんにちは。それでは始めましょうか……第三章からでしたね」
 ルヴァは書物を開き、ゆったりとした口調で、その章の要点を説明する。リュミエールは、いつものように質問をするでもなく、時々、“はい”、“わかりました”と言うだけで、その視線は虚ろだった。
「リュミエール、今日は少しお疲れのようですね。もう切り上げましょう」
 ルヴァはまだ授業が始まって半時ほどだが、そう言って書物を閉じた。
「申し訳ありません……」
 リュミエールは、小声でそう言うと俯いた。
“政治的な事でお心を痛めていらっしゃるのかも知れない……それならば私が口だしすることではありませんが……”と思うルヴァだったが、リュミエールの迂闊な発言の出来ない立場を考えると、今二人きりのこの席でなら、話を聞くだけでも……と思うのだった。
「どうなさったのです? 何か……ありましたか?」
 思わずそう言ったルヴァを、リュミエールは見た。言葉が出ない。が、その目には涙が滲んでいた。
「辛いことは話すと楽になれるものですよー。あー、私は口は固いです。というより、このルダ城に来て間もないし、執務室では文官見習いの立場だし、それに噂話や無駄口を叩けるような知り合いもいないので、誰かに言いたくても言えないのですけどもー」
 ルヴァの人柄と相まってそんな風に呑気な調子で言われると、リュミエールは力なくではあるが、やっと小さく微笑んだ。自分が言いやすいようにと、わざとそんな口調で言ってくれた心使いが嬉しくもあった。
「ルヴァ様……」
 リュミエールは、訥々と話をしだした。スイズ王家では、王座を巡って兄弟間で諍いになっていることと、先ほど偶然聞いてしまった母の死についての真相と……。
「実母のことは私は何も知らないのです。誰に聞いても竪琴が上手でとても美しい人だった……とそれだけの返事しか帰って来ませんし、実家についても一度も訪れたこともありませんし、祖父祖母にあたる方たちにもお逢いしたこともありません。冷たいことだと思われるでしょうが、そういうものだと思って育ったのです。わたくしにとっては、お顔もその温もりさえも知らない実母よりも、王妃と寵妃、二人の母上の方が、情というものがあるのです。あのお二人は、幼い頃には、わたくしに、よく優しく微笑んで下さっていました。……それが心からのものでなかったのではないか……、そのことは兄たちの王座を巡っての諍いの最中から、気づいていました。けれど、認めたくなかった。王座の為に一時、お心が乱れてらっしゃるだけだと信じたかった。私の実母……、王の若い寵妃を亡き者にしてしまおうなどと恐ろしいことを画策する人だったと知って、それが悲しくて……」
 そう言うとリュミエールは、さらに低く項垂れた。

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