第二章 聖地、見えない星

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 その時、背後で再びランプが灯った。教皇はランプを壁際にある台の上に置き、そこから炎を取 って、もうひとつ備え付けの燭台を灯した。またお互いの表情が判る程度の明るさになった。
 「教皇がその命の終わりを迎える時、あるいは、年老いて気が弱まった時、聖地からのお力は、次代へと移る……。教皇は体からその力が消えようとするのを感じたら、聖地とは何か、その力とはどのようなものか……次代へ、知りうる限りの事を伝えていく。ただし、そのような時間のない時もある。私の場合がそうだった。先代の教皇……父は、突然、病に倒れ、私にそれらを伝える間もなく身罷った。私はほとんど何も判らぬ うちに教皇になった。過去の教皇が書き記したものを隈無く読み、重要と思われる部分を抜き書きしたのだ」
 教皇は、座り込んだままのクラヴィスに鍵を渡した。
「この塔の地下に書物庫がある。過去の教皇が残した日誌や文献の類がそこにある。私が抜粋したものもそこにある。お前に鍵を渡しておこう」
 クラヴィスは、ただ黙って鍵を受け取ると教皇を見上げた。今、クラヴィスの心を占めているのは、ただひたすらの、“何故”という言葉ばかり……。
 教皇は法衣が汚れるのにもかまわず、クラヴィスの横に座り込んだ。
「何故、セレスタイトではなく、自分なのか……、お前の戸惑う気持ちは判る」
 教皇は、クラヴィスと同じように夜空を、聖地を、見上げて言った。
「私は兄弟がおらぬ。故に仕方なくこの身が、聖地よりの力の器となった気がする。先代に比べると私は平凡な人間だ。人の上に立つような特に秀でた所もない。さしたる資質もない自分が、この大陸の頂点に立つなどと……。そもそも教皇は何か? どんな役割があるのか?  聖地は本当に私が教皇で良いとお思いなのか? 私は随分、悩んだよ。誰かに教えを乞おうにも、聖地の事は、一子相伝ともいえるもの。父である先代亡き後は、誰もその事を知るものはいない。私は必死で過去の文献を漁ったのだよ」
「過去の文献の中に答えはあったのですか?」
 見つかったのならば、自分もそれが知りたい、このままではとうてい納得できない……クラヴィスは、縋る思いで尋ねた。
「随分以前の文献にこんな事が、書き記してあった。ある教皇には三人の息子がいた。第一子、第二子ともに優れた人物であったという。いずれかが教皇になるものと誰もが思っていたと。だが、教皇になったのは、放蕩息子の第三子だった。教皇になった後も、 細々とした執務は兄弟に押しつけて、執務室に出てくることも稀。寵妃どころか後宮まで造る始末。だが、紛れもなく彼の裡には、聖地より賜った力があった。似たような記述は他にも幾つかあった」
「僕と兄上もそうだ。兄上の方が、ずっとずっと教皇に相応しいのに」
 そう言って俯いたクラヴィスの肩を教皇は抱いた。
「学業や武術に秀でているか、人格が高潔か、見た目の容姿の優劣か、そんなことは一切関係ないのだよ……だだ、その裡に、聖地からの力を受け止めるだけの強さがあるかないか……」
「強さ? そんな男が? どうして、そんな男が強いんですか? 心が弱いからそんな風に自堕落な生活を送っているのに!」
 珍しく語気を荒げて言ったクラヴィスに、教皇は首を左右に振る。
「そういう心の強さとは少し違うのだよ、その強さとは。お前は既に幼い頃からその力を持っているならば、知っているだろう。例えば、言い知れぬ不安に囚われる夜更け、……どこの、誰とも知らぬ者たちの悲しみ……暗黒の中ですすり泣くような……そう、この大地自身の嘆きのような……」
 教皇の低い声が、クラヴィスの心を打つ。彼は、改めて教皇を見た。
「気の遠くなるような彼方。荒涼した絶望という闇の果て、そこに漂うような自分の意識。何度も何度もそこに放り出されては、戻ってこようとする。戻らねば、心は崩壊する。 初めてそのような感覚に見舞われた時、私は何日も気持ちが鬱いでどうしようもなかったよ。だが、この試練に耐えうることが教皇の証しなのだと、自分は、教皇だと思えばこそ、やっとの思いで耐えられたが、可哀想に……幼い頃から、お前はそういう夜を幾つ迎えたのだ?」
 教皇は、目を瞑り、額に手を置いて言った。クラヴィスは驚きで声が出ず、やっと掠れた声で、「あれは……ただの悪夢ではなかった? 悪夢のようなあれを耐えて、目覚める事が 、教皇の証し?」と、呟いた。
「先も言ったように、私には他に兄弟はおらず、必然的に私が力を受け継ぐことになったが……先代たちが持ち合わせたほどの、器としての強さが私にはなかったのかも知れない。本来はひとつ所にあるべき力が、お前が生まれて後、早々に二つに分かたれたのかも知れない。私の未熟故に……」
 教皇は、抱いているクラヴィスの肩をさらに引き寄せた。
「息子よ……。教皇とは、国々の諍いの調停をし、この大陸にある人々に、女王陛下の御名の下、平和と秩序を説く者として存在する。しかし、その本質は、そんな華やかなものではないのだ。人の持つ負の感情……悲しみ、憎しみ、嘆き、誹り……それらが積もり行き場を失ったものを、浄化するための力を有している存在なのだ。 まるで、汲み上げた泥川の水を浄化し飲み水に変える濾過装置のような……な。これは私なりの解釈だが」
 教皇は、最後の部分を小声で言い、フッと自嘲した。
「濾過装置のような……? もし……教皇が……いなかったら、この地はどうなるんだろう?」
「濾過装置がなくば汚れたものは綺麗になるまい。理屈で言えば、この地に人が生きていくことに支障があるということになるのだが、本当の所は、わからぬよ。二千年もそうして引き継がれてきたという事実があるだけで、何もわからない。だが、過去の文献にこういう下りがあった……千年以上前と思われる古の教皇の古い記述だ」
 教皇は、ひとつ咳払いをし、それを思い出すかのように瞳を閉じた。

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