第二章 聖地、見えない星

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 翌朝、珍しく深い眠りの中から、ふんわりと浮かび上がるように自然と目が覚めたクラヴィスは、身支度を調え、軽く朝食を摂った後、教皇と皇妃へ挨拶をしに行った。二人は朝食を終え、お茶を飲んでいる所だった。
「おお、もう出る時間か。駅まで見送りに行けないが道中無事でな」
「クラヴィス。辺境の辺りは気候の乱れが激しいと聞きますから、風邪に気を付けて」
 皇妃は、いつものと変わらず優しげな微笑みでクラヴィスに声を掛けた。クラヴィスが教皇になると知った時は、乱れた彼女の心も次第に落ち着き始め、教皇庁が安泰ならばそれでいい……と思うようになっていた。クラヴィスが二人に深々と頭を下げ、退室しようとした時、派手に扉が開き、セレスタイトが入ってきた。
「ああ、やはりここにいたか。部屋に行ったらもう出たというので慌てたぞ。父上、母上、おはようございます」
「なんですか、騒々しいですよ」
 皇妃は、クラヴィスに見せたより一段と明るい微笑みをセレスタイトに見せて、彼の朝の挨拶を頬で受け止めた。
「父上、クラヴィスを駅まで見送って良いでしょう? 午前中の予定が変更になったので、時間が空いたんです」
「表向きは、教皇庁の皆には、ジェイド公の館へということになっているのですよ。それに、駅から列車に乗るのは、単なるスイズの貴族の子……ということになっているのですから、見送りは……」
 セレスタイトは、成人の儀以降、市井の人々にも披露目が済んでいる。教皇庁の中だけで暮らしているクラヴィスと違い、それなりに民にも顔を知られているのだった。皇妃が、やんわりとそう言うのを、セレスタイトは止めた。
「母上、判っていますよ。ですから、馬車の外には出ません。駅までの道中だけ。少しクラヴィスと話もしたいし」
「それなら、構わないだろう」
 教皇がそう返事をすると、セレスタイトは、クラヴィスを促した。
「では、行ってまいります。クラヴィス、早く来い」
 まるで自分が旅に出るようにセレスタイトは、教皇たちに挨拶すると、クラヴィスの手を引かんばかりに追い立てて退室した。
 
 セレスタイトとクラヴィスが、教皇庁の前庭の車寄せにまでやって来ると、既に二台の馬車が待機していた。それぞれの馬車の御者とその傍らに二人の男が立っていた。彼らは、クラヴィスを見ると、すぐに跪いた。
「ジェイド公様より旅のお供に遣わされました者にございます。一切の手筈は伺っております。こちらは私の弟でございます。田舎者ゆえお見苦しい点はあるかと存じますが、武芸一般に秀でておりますので同行させました」
 二人のうち年上の者がそう言った。もう一人の方も、彼の背後で深々と黙礼していた。二人ともジェイド家の武官の身分を示す記章を腕に付けている。
「よろしく……」
 クラヴィスは短くそう言い、セレスタイトと共に馬車に乗り込んだ。先に武官たちを乗せた馬車が出発し、その後にクラヴィスたちの乗った馬車が出る。
「小さな馬車だな、仕方ないけれども」
 セレスタイトやクラヴィスの使う馬車は、本来ならば教皇庁の紋章の入った豪華なものなのだが、身分を隠しての事なので、一般仕様のものになっていた。
「いや……クラヴィス、お前が大きすぎるんだ、きっと。大きくなった。いつの間にか。なあ?」
 セレスタイトは、自分と変わらぬ背丈の弟を見て笑いながら言った。
「うん……」
 クラヴィスは申し訳なさそうに首を竦めて答えた。
「クラヴィス、この旅から戻ったら忙しくなるかも知れないぞ。父上は教皇庁内の者たちに、次期教皇の件をお告げになるつもりだ。周囲の者たちの態度も違ってくるだろうし」
「兄上……」
「父上から教皇のお役目についてお聞きした。本来はあまり口外してはならないことのようだけど、それによると、この大陸にある総ての民へ、聖地の御名の元、正しい教えを伝える事や、各国間の調停などの他に、もうひとつ教皇という存在が、人知れず受け入れなければならない重要なお役目があるという。それこそがもっとも大事な事なのだと」
 セレスタイトの言葉に、クラヴィスは頷いた。
「この身に聖地よりのお力を賜っていない私では、それは代わってはやれない。けれど、人々に教えを説くことや、他国との外交は私でも出来る。お前が慣れるまで、力になるから、そう心配顔ばかりするな」
 兄の言葉にクラヴィスは胸が詰まる思いだった。
 “慣れるまで力になるから……”
 その言葉を兄の口から聞くのは二度目だった。クラヴィスが、初めて教皇庁に連れて来られた日に、初対面の彼に向かってセレスタイトはそう言った。教皇庁内の豪華な館の入り口で、従者に伴われて馬車から降り立ったクラヴィスに、誰よりも早く駆け寄って来たセレスタイトは、笑顔と共に手を差し伸べた。
『ようこそ、クラヴィス。君の兄のセレスタイトだよ。どうぞよろしく。判らないことがあったらなんでも聞いて。ここでは、いろいろとしきたりがあるから慣れるまでは大変だろうけれど力になるからね』
 握手したクラヴィスの手をそのまま放さずにセレスタイトは館に入り、主だった部屋を案内して回った。あの日……。
 クラヴィスは兄の端正な横顔を見つめた。
“心が正しく美しいというのは、この人のような事を言うのだろうと、いつかこの人の信頼を得られるようになろうと、あの日からそう思ってきたのに……”
 クラヴィスの心の中に、また教皇という存在についての疑問が広がっていく。
「なあ、クラヴィス。私や母上、父上に遠慮するのはもうやめてくれ。幼い頃から、いくらそう言ってもお前は、ずっと何か自分の生まれについて卑下していただろう。確かにそんな風に控えめにさせてしまうような雰囲気が教皇庁内にはあったし、母上にとってはお前のそんな態度は救いであったかも知れない。けれどもう十年になる、もういいじゃないか。教皇の件もそうだ……お前の気持ちは痛いほどに判ってるけれど、あんまりいつまでも思い悩まれると、こっちは何とも思っちゃいないのに、いい加減にしろよ……と思うよ」
 前を向いたまま静かにセレスタイトはそう言った。彼が初めて口にした辛辣な言葉に、クラヴィスは「え……」と言ったまま一言も言い返せなかった。セレスタイトはクラヴィスの方を向くと怖い顔をしたまま、俯き加減になっているクラヴィスと無理矢理、視線を合わせた。
「いいか。二度と、私に遠慮するな。私はお前のせいで、教皇になり損なったなんて思っちゃいない。正直、お前が教皇になると聞いてホッとしたんだ。もし私が教皇になっていたなら、お前は第一補佐官としてずっと誠実に私に仕えてくれるだけの人生を送っただろう。私の為に、自分を押し殺して。そんなことは私は望んではいない。誰の影にもなるな、クラヴィス。お前はもっと傲慢になっていいし、幸せになっていい。そして……そうできない事を自分の生まれのせいにするなよ。貧しい家に生まれた者は、妾の子は、母を幼くして亡くした者は、皆、ひっそりと生きなければならないのか? 皆、幸せになっちゃあいけないのか? 判るよな? 自分がどうすればいいか、判るよな、クラヴィス」
 クラヴィスの頬を涙が伝う。控えめにしている事が、皆の為だと思っていた未熟な自分の考えが、恥ずかしくて情けない気持ちになりながら。そして、改めてセレスタイトを想う。この人ならば、表向きの教皇の職務だけでなく、聖地よりの力を受けて入れて、どんな深い悲しみも苦しみも乗り越え、浄化させるだけの力があろうものを……と。
 クラヴィスの心に、また聖地に対する疑問が過ぎっていく。無言のまま目に涙を溜めているクラヴィスに、セレスタイトはそれまでの固い表情を崩した。
「一度、泣かしてやろうと思ってたんだ。兄に生まれた限りは一度くらい弟を泣かせておかないと。さあ、そろそろ駅だ」
 いつもの調子に戻った彼の口調に、クラヴィスは顔を上げ、無理に僅かに笑った。馬車は速度を落とし駅前の広場をぐるりと周回した後、定められた位置に止まった。先に止まった武官たちがクラヴィスたちの馬車の扉を開ける。セレスタイトは座ったまま、クラヴィスの背中を押した。
「私はここで見送るよ。気を付けて」
「はい。ありがとう、兄上」
 クラヴィスは馬車を降りながらそう言い、小さく頭を下げた。
「笑顔で戻って来い、きっとだぞ」
 この旅で、心の中にあるものを吹っ切ってこい……そういう気持ちを込めてセレスタイトは、クラヴィスに力強く言った。兄の気持ちはクラヴィスにも伝わっている。だが、それを、確かな言葉として答え返せるだけの余裕はクラヴィスにはなかった。今は、ただ精一杯頷く事だけしか出来ない。
 武官の一人が、セレスタイトに一礼し、馬車の扉を閉めた。硝子越しに見える兄に、クラヴィスはもう一度、黙礼した後、武官たちを従えて駅舎へと向かった。背丈はあるのに体の厚みや肩幅がまだ細い成長途中の少年の、不均衡な後ろ姿を見送りながらセレスタイトは、どうかこの旅が、クラヴィスにとって楽しいものになるように、と祈っていた。

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