第八章 8

  
 オスカーが戻ってくる……。夕暮れの兵舎には一日の仕事を終えた者たちが、帰りや当直の支度をしており、そこへコツによる知らせが届いたので、蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
「大変じゃ。ジュリアス様とオリヴィエ様に報告しなくては」
 ずんっ……と立ち上がったのは、元気になったラオである。
「爺ちゃんは座ってなよ。無理するとまたどっか悪くするんだから」
「年寄り扱いするな。文を届けるくらいで、どうということもないわい」
「爺ちゃんが行くより、俺が走ってったほうが早いんだから!」
 ヤンは、情け容赦なくそう言い、ラオはブツブツ言いながら引き下がった。
「よしっ、ひとっ走り行ってくるよ!」
 ヤンが、兵舎から飛び出そうとした矢先、扉が開く。
「な、なんだい、ヤン、危ないじゃないか」
 オリヴィエとぶつかりそうになったヤンは、慌てて一歩下がった。
「ご、ごめんなさいっ」
 ヤンが謝っている隙に、若い騎士たちが、オリヴィエに向かって、一斉に言葉を発した。
 「コツが」、「帰って」、「とうとう」、「やっと」、「待っていた」……所々だけが、オリヴィエの耳に入る。
「ちょっと、ちょっと、待って。何なの? どうしたんだい?」
 オリヴィエは皆を鎮まらせると、一番後でふんぞり返っているラオを見た。ラオは待っていました、とばかりに立ち上がると、若い連中を押しのけ、ヤンを鼻先で嗤いながら、オリヴィエの前までやって来た。
「コツが届きましたのじゃ。オスカー殿……あ、いや、オスカー様から」
 ラオは、勿体ぶってゆっくりとそう言った。
「なんて?」
 皆の様子から、それが吉報である事は、オリヴィエにも判ってはいる。
「あちらを出られたそうですじゃ!」
 ラオがそう言うと、皆が「うおー」と声を上げた。
「コツの出された日付から見てオスカー様の到着は、明日の夜頃かと思われます」
 騎士長が、横からそう付け足した。
「いや、オスカー様の事だ。夕方には到着されるんじゃないか?」
 ラオの横にいた騎士がそう言うと、また彼らは騒がしくなった。
「いや、昼過ぎに着かれるかも知れない」
「待て待て、大怪我をされた後のお体だぞ。そんなに早くは無理だろう。明後日の昼まではかかるんじゃないか?」
 口々に騎士たちはそう言い合い、ついには、オスカー到着を賭けることにまでなってしまった。
「オリヴィエ様は、いつだと思われます?」
 騎士の一人が尋ねた。
「そうだねぇ……ま、オスカーの事だから、馬をすっ飛ばして帰ってくるにしても、クゥアンの手前の町で、久々に楽しむかも知れないから、明後日の午前中に賭けるよ」
 オスカーならば明日の朝か、昼過ぎにでも着けるだろうが、裏を読んだつもりでオリヴィエは、そう言った。
「ようし。負けたものは、厩の馬糞係だ。オリヴィエ様でも情けは掛けませんよ」
 堆肥を作るために馬糞の入った桶を、城に裏庭にある大穴に埋めに行く役目は、騎士たちのもっとも嫌う仕事あった。本来ならば下働きの者がするような仕事だったが、騎士団の中 での事は自らで全てを賄うという決まりが彼らの中にはあった。
「ふふふ。望むところさ」
 オリヴィエは、楽しそうに答えた。一時は皆との関係が、主従のそれに変わっていたのが事件が解決し、ラオとヤンが復帰して、また元のような雰囲気に戻ったことをオリヴィエは何より嬉しく思っていた。若い騎士たちが、騒ぎながらいち早く 、板を取り出し 、賭の一覧表を作り始める。そこに兵舎の扉が突然開いた。
「一体、なんの騒ぎだ?」
 と呆れた風に言ったジュリアスに、気づいた一同は、突然の彼の訪問に慌てふためいた後、水が引いていくように静かになった。
「オスカーからさっき、コツが届いてね、それでいつ戻ってくるか賭けてたんだよ」
 オリヴィエがそう言うと、ジュリアスは一覧表の書かれた大きな板を覗き込んだ。
「私の所にもオスカーからコツが届いたのだ。それで、騎士団の者に知らせようと思って来たのだが、同送していたのか。無駄足であったようだな」
「お心遣いありがとうございます」
 騎士長は、深く頭を下げた。
「ジュリアス、貴方も賭けない? 明日の午前中、昼過ぎ、夕方、夜、そして明後日の午前中……今のところ、賭け枠は五つ。どれと思う?」
 オリヴィエにそう言われて、ジュリアスは再び一覧表を見た。
「一番多いのは明日の昼過ぎか……。よし。では、明日の午前中に賭けよう。オスカーならば、明日の朝には着けるだろう。勝った者へは賞として鞍を出そう」
 ジュリアスが、そう言うと皆は歓声をあげた。
「じゃあ、ワタシはその鞍に揃いの手綱を進呈するよ」
 オリヴィエはそう付け加えた。騎士たちは、豪華な賞が出たことに沸き立った。そして一番賭けの人数が少ない欄にジュリアスの名前が追加された。
「ほら、ジュリアス様だって、明日の午前中に賭けられましたよ。他にいませんか? オスカー様なら絶対、二日半足らずで戻られますよ」
 ヤンは得意気に言ったが、誰も乗ってこない。
「ヤンは、オスカーの崇拝者だからね、だけど覚えておおき。オスカーには立ち寄りたい所があるはずさ。大人って、坊やにはわからない事情があるんだよ。ふふふ」
 オリヴィエがヤンをからかうと、ヤンは口を尖らせ、その場にドッと笑いが起こった。
「ところでジュリアス、負けたら厩の馬糞係をさせられるんだよ。馬糞処理をする皇帝、こりゃ見物だね」
「そなたこそ」
 二人が鼻先を付けるようにして言い合うと、また皆の間に笑いが起こる。
「よし、不正ができないように手の届かない所に、この板を掛けておこう。ヤン、支えるから、そこの天井の梁の所に出ている杭に板を引っかけてくれ」
 そう言ったのは騎士長である。
「誰も不正なんかしませんよね。あ、でもオリヴィエ様はあやしい……」
 先ほどの仕返しとばかりヤンはそう言って、卓台の上に椅子を置き、ひょいと登った。
「ここらあたりでいいですか?」 と振り返ったヤンは、その時、また兵舎の扉が、そっと開いたのに気づいた。
「左が下がってる。もう少しまっすぐ」
 下から見上げた騎士長が、ヤンに声をかけた。 
「…………」
 ヤンは返事をせずに扉の方向を見たまま、固まっている。
「おい、ヤン、左を少し上げろって……聞いてるのか?」
 そう言われても何も言わないヤンの視線の方向を、一人、また一人と騎士たちが振り返って見た。
 きょとんとした顔で立っているオスカーの姿に、その場にいた者は、ジュリアスが入ってきた時よりも静かになった。
「あ……た、ただいま……」
 兵舎にオリヴィエのみならず、ジュリアスまでもおり、何やら騒ぎ立てていたことに、オスカーは戸惑い立ち尽くす。騎士長とラオがスッと立ち上がるとその場に跪いた。
「オスカー王子、お待ち申し上げておりました」
 二人がそう言うと、一斉に他の騎士たちも同じようにする。それを見ていたオリヴィエとジュリアスは、お互いに口端を上げて笑った後、オスカーに向かって「ホゥヤン国オスカー王子殿、ようこそ参られました」と言って 、胸に手を当て、深々と頭を下げた。
「な……何を……。よして下さい、ジュリアス様。おいっ、オリヴィエ、嫌味な事はよせよ。皆もやめてくれ、頼むから!」
 オスカーは、自分の向かって頭を垂れている者たちの間で右往左往しながらそう言った。
「皆、これくらいで許してやろう。王子様が困ってるからね」
 くすくすと笑いながらオリヴィエが言うと、どっと皆がオスカーの元に集まった。
「オスカー」
 そう彼の名前だけ呼ぶとジュリアスは、その手をしっかりと握りしめた。
「何だよ、自分だけ男前になっちゃってさ」
 オリヴィエは拗ねたようにそう言い、オスカーの肩を抱いた。元々、精悍な顔立ちをしていたオスカーだが、一回り痩せた後、意識して体力、筋力をつけ回復に努めたことが効いて、以前に比べるとより引き締まった感がある。
「困るよな。これでまた酒場の女たちの視線を独り占めされちまう」
「いや、大丈夫じゃ。王子となられたからには、酒場遊びなぞとんでもないことじゃからのう」
「頼むよ、ラオも、皆も。王子と呼ぶのだけはやめてくれ。俺は戻って来たんだ。ホゥヤンの王子としてではなく、第一騎士団の一員として」
 オスカーはそう言い、了解を求めるようにジュリアスを見た。
「いや。オスカー。そなたの気持ちはわかるが、そういうわけにはいかない。ホゥヤンを国に戻すことについては、表向きは、私の命と言うことで納得はしているようだが、他の領主や騎士の者たちにも、思うところがあるようだ。けじめだけはつけねばならぬ。そなたは第一騎士団からは引いて貰わねばならない。あくまでもホゥヤン国王子としてクゥアンに滞在して貰わねば」
 ジュリアスが、そう言うとオスカーは少し寂しげな目をした。すかさずオリヴィエが、ジュリアスの後に言葉を継いだ。
「ワタシも第一騎士団所属じゃなくなったんだよ。元々は騎士試験の訓練のために……という条件付きだったしね。乗馬も剣も一通りは身につけたから自主的に退いたんだ。それにツ・クゥアン卿が王となり、ジュリアスが皇帝となって、体制が替わったことで、 やらなきゃならないことが沢山ある。オスカーもホゥヤン国の王子としての務めが多くあるはずだよ」
 二人からそう言われて、オスカーは黙って頷いた。確かに荷物の中には、ロウフォンから預かった文書が多く入っている。クゥアン側と調整しながら事を進ませねばならないあれこれを 、自分が代行すると、父と約束をしていたのだ。
「けれど、余暇をどう過ごそうと自由だからね、少しでも時間が空くとここに入り浸っているんだ」
 オリヴィエはそう言って、片目を瞑って微笑んだ。
「そなたには積もる話がある、それにあの剣の事も……」
 ジュリアスが、そう言うと、オスカーは俄にぐっと神妙な顔付きになった。
「オスカー、今夜は眠らせないよ。貴方が眠っていた間にどれだけワタシたちが苦労したかたっぷり聞いてもらうよ」
 オリヴィエは、ジュリアスとオスカーを促して主塔に戻ろうと兵舎の扉に手を掛けた。
「お手柔らかに頼むよ。……ところでさっきから気になっていたんだが、あれは何だろう?」
 オスカーは、天井の梁からぶら下がっている板を指差した。
「オスカー様がいつ戻ってくるか皆で賭けたんですよ。でもまさか今日戻ってらっしゃるなんて誰も思わなくて……。勝てばジュリアス様とオリヴィエ様から鞍と手綱が頂けたのに……オスカー様ったら思いっきり飛ばしてらしたんでしょう ? 二日で着くなんて信じられない。ジュリアス様とオリヴィエ様から、鞍と手綱が頂けるはずだったのになぁ」
 ヤンは、がっかりした風で言った。
「ああ、父上が一番良い馬をくれたから昼夜走り続けたんだ。それに帰れるのが嬉しくて。でも、誰も勝者がいないって事は、俺の勝ちってことじゃないか? 鞍と手綱が頂戴できるって? なあ、オリヴィエ、ジュリアス様」
 オスカーは二人を見て、にやり……と笑った。
「なんだい、面白くないや。でも謹んで進呈するよ、鞍と手綱。ね? ジュリアス」
「もちろんだ。王子が持つに相応しい立派な物を造らせよう」
 ジュリアスが笑いながらそう言うと、オスカーはまた困った顔をして頭を掻いた。
「ふふふ、当分、いじめがいがあるね」
「またそんな事を言う。いきなりこんなならもっとゆっくり勿体ぶって帰って来た方が良かったなぁ」
「いつ帰って来たって、いじめたげるから一緒だよ。早く帰って来てくれて良かったって思ってる」
 オリヴィエは、オスカーを見て本当に嬉しそうに笑った。
「これで皆、揃いましたよね、後は西に行く用意をしなくっちゃ!」
 ヤンが大声でそう言うと、若い騎士たちを中心にまた騒がしくなる。
「お、おい。西へ行く用意って?」
「第一騎士団の連中も行くってさ。ヤンとラオもどっちが行くかで揉めてるんだ」
 オリヴィエは、呆れた顔をして言った。
「気が早すぎるぞ、皆」
 オスカーは騒いでいる者たちに声をかけた。
「いや、オスカー。それほど気が早い話でもないぞ。来月あたりにでも、進水式を行うつもりだ」
「俺が去年の暮れに見た時は帆の部分はまだ未完成でしたよ」
「インディラの技師が、進水させてから近場を試航海させつつ、帆の調節など細かい部分をしたいと言って来たのだ。それが済めば、いよいよ出航だ」
 ジュリアスの言葉に、オスカーは胸が高鳴なり、「それでは夏になる頃には……もう」と呟いた。
「ああ、出航だ。そなたはどうする?」
 オスカーの答えは判っている。けれど、ジュリアスはそう尋ねた。
「お供します。いえ……供じゃありませんね。俺自身の為にも行くんですから」
 オスカーはきっぱりとそう言った。
「あの剣を初めて手にした時、瀕死の状態で見た幻覚……。俺にはあれが何か意味のある事にように思えて仕方ないんです。ジュリアス様がいつか仰ってた、自分の知らない所で運命が動いているなら、それを示唆するものが西にあるなら確かめたい、と。俺も確かめて見たいんです」
 オスカーがそう言うと、オリヴィエは彼の肩に手を置いた。
「行こうよ、皆で、西へ」
 オリヴィエの言葉に、一同が沸き立つ。その中で、ラオとヤンが、またどちらが行くかで、揉め出して皆の笑いを誘った。
 新芽が延び盛り、インファの花が南風に散る頃、ついに西へ……。ジュリアスの心の中には、既に爽やかな風が吹いていた。

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