第八章 7

  
 ツ・クゥアン……と署名された書類を、ジュリアスは眉を顰めて見ている。
「そなた、どう思う?」
 とそれを、オリヴィエに見せながらジュリアスは問うた。
「いいじゃない。別に」
 オリヴィエは、チラリと見た後、そっけなく答える。
「だが、もともと、ツ……とは、第二継承権を指す言葉なのだ。ツ・クゥアン王では、おかしいだろう」
「細かいことに気にしなさんな。やらなきゃならないことがいっぱいあるんだから。今となっては、ツ・クゥアンの方が通りがいいんだし、本人がそうしたいって言ってるんだもの。貴方は皇帝だけど、西に行くまで仕事の体系は変わらず今までと一緒 なんだし 。そんなことより、早くこっちを手伝って欲しいよ、船に積み込む備品の一覧表に、漕ぎ手に選ばれた者たちの一覧……目を通すだけでも何日かかるか」
 オリヴィエは、少し意地悪くそう言うと、また自分の分担している書類に目を通す。
「……」
 ジュリアスは、オリヴィエにそう言われて不満顔のまま、今し方届いたばかりの書簡の束に手を延ばした。
「ああ……これは、ホゥヤンからの報告書だ。あ、オスカーの文も入っているぞ!」
「もう筆が取れるほど回復したんだ。どれ、どれ。」
 オリヴィエとジュリアスは頭を付き合わせて、オスカーからの文を読んだ。ジュリアス、オリヴィエへの礼の言葉の後、例の一件で、心ならずもクゥアン領主を手にかけることになってしまった経緯と供に、朦朧とする意識の中で、あの剣を見つけた時の事が 、ざっと記されていた。そして、寝ていた間に随分痩せて、筋力が落ちてしまったため歩くこともままならない、今しばらくはホゥヤンに留まり体を治す事に専念し、座ってでも出来る仕事をして父の手助けをしたい……と締めくくってあった。
「ねぇ、逢いに行こうか?」
 とオリヴィエはチラリとジュリアスを見て言った。
「いや……」
「そうだね……。ホゥヤンは今、新体制になって大変な時だもの。ロウフォンには誰よりもオスカーが必要だものね。なんたって、オスカーは、王子になっちゃったんだもの。今は何よりロウフォンの側にいたいのかも知れないし」
 寂しそうな笑みを浮かべてオリヴィエはそう言った。
「それならばそれでいいのだ。父上が亡くなり、王となった私との間に、伯父上は、頑ななほどの一線を引いた。私の学業や武芸を教えてくれていた者たち、側仕えたち、全ての人との間に見えない線が引かれた。だから、オスカーがクゥアンにやって来た時、私は本当に嬉しくて……。オスカーの存在にどれほど救われたことか。何年もよく私の側にいてくれた。だから今は、オスカーが良いと思うようにして欲しいのだ」
「じゃ、私も待つことにしよう。オスカーだって西に行く理由が出来たんだもの。きっと、戻ってくると思うんだ」
「そうだな。それまでに私たちも出来るだけ西へ行く準備を整えよう」
 二人は、再びそれぞれの仕事に戻った。穏やかな静けさが執務室に満ちていた。

◆◇◆


  ロウフォンが、クゥアンから戻って一月が過ぎていた。ホゥヤン城の離れには、元のホゥヤン領主が監禁状態にされており、さすがにそのすぐ近くで政を行う気になれないロウフォンや側近たちは、 彼の本宅の広大な敷地の中にある離れの塔を利用して執政を取っていた。
「父さん、頼まれていた調べ物を持ってきました」
 オスカーはゆっくりと歩きながら、ロウフォンの執務室に入ってきた。傷跡が痺るため、少し足を引きずっている。
「すまなかったな。古い資料を洗い出すのは厄介だっただろう」
「ああ、こういった作業は苦手だけれどね。でもいい勉強になったよ」
 オスカーはそう言うと、椅子に腰を下ろした。
「やはり動くと傷口が痛むか?」
 オスカーが肩で息をしているのを見たロウフォンは、心配してそう言った。
「いや、痛みはもうそれほどでもないですよ。随分痩せたし、体力が落ちているから、この塔を上がってくるのに息が切れるんだ。でも途中で足が止まらなくなっただけましかな」
「馬はどうだ? まだ乗るのは無理か?」
「乗って軽く走らせるくらいは出来ると思うけれど、もしも馬が暴れ出した時に御せないと思う。だからもう少し筋力をつけてからでないと」
 オスカーの言葉に、ロウフォンは、“おや……”と思う。先ほどの“いい勉強になった”という一言も、今の慎重な発言にしても、以前のオスカーらしからぬ所があった。歩けるようになったなら、多少無理をしてでも馬に乗り、馬に乗れたならクゥアンに戻ると、そう言い出すはずだとロウフォンは思っていた。オスカーは子どもの頃から、無理ではないかと思われることにあえて挑む質であった。時には失敗することもあったが、恵まれた体格と判断力で大抵は強引とも思えるやり方でなんとかこなしてしまうような所があった。
 ロウフォンは、褒めてやりたいのを堪えて、“お前は慎重さに欠ける所がある”と何度言ったか知れない。そのオスカーが、苦手な文官の仕事をしながら、地道に体を治すこと を優先している。死の淵を彷徨ったことで、何かが彼の裡で変わったのかも知れない……ロウフォンは、人として一回り大きくなった息子に思わず微笑みかけた。
「なんです?」
 ふいに笑みを漏らしたロウフォンの表情に、オスカーは思わず尋ねた。
「いや……別に……」
 ロウフォンは、そう曖昧に返事をし書類に目を戻す。そして、署名をした後、真新しい印を押すと溜息をついた。
「王と署名するのにも、そう呼ばれるのもまだ慣れないな。どうも背中がもぞもぞとする」
「俺だってそうですよ。オスカー王子と呼ばれた時は、眩暈がしました」
 オスカーとロウフォンは、顰めっ面をした後、情けないような表情で笑い合った。

 やがてまた数週間が過ぎた。その日、館からほど近い草原に、オスカーは一人来ていた。側には彼の乗ってきた馬がいるだけだ。外気はまだ冷たいが、空の青さはもう真冬のそれではない。水源地が近くにあり 、冬でも適度な湿度のあるその草原は青々として柔らかい草がある。この草原こそが名馬を多く産出する源になっている。春が近づいている証拠に、それらの草の合間に小さな野花が蕾を持っている。
 オスカーの怪我はほとんど癒え、体を捩った時にだけ、刺された脇腹のあたりに違和感が残っているものの、その他の筋力は かなり回復していた。
 “クゥアンに戻ります……”と、今朝方、オスカーは、ロウフォンに告げた。“行ってきます”、ではなく、“戻ります”と自然に言葉を発してしまった後で、父の気持ちを思いやり、少し戸惑った風だったオスカーに、ロウフォンは笑顔で 、“了解した。戻るなら早いほうがいい。明日にでも”と、彼の気持ちを思いやって早々の出発を促した。
 オスカーは、クゥアンに向けて戻る旨を書き記した文したため、それを一番早く飛べるコツに持たせて、ジュリアスと第一騎士団宛てに送ると、彼は一人馬に乗り、この草原に来たのだった。
“視察の帰りに数日立ち寄るだけのつもりが、えらく長い休暇になっちまったよなあ……”
 オスカーは、草原を見渡しながらそう思い、あの時見つけた剣の事を思い出していた。ロウフォンの手で、ジュリアスに託された剣を。もう一度、あれに触れてみたい。あの時、見えた幻はまた見えるだろうか……体の中を駆け抜けるような不思議な感覚をまた経験できるだろうか……。オスカーは 、掌をぐっと握りしめるとクゥアンの方向の空を見た。
 そして明日、どうか晴れるように……と祈った。

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