第八章 6

  
 時は少し遡り、ヤンがクゥアンに戻った後の事。オスカーは、日に何度か目を覚ますようになっていた。側に誰かいる時は、二言、三言、挨拶めいた言葉を交わすものの、 記憶が曖昧になっていて、また眠りに落ちていく……そんな感じが 二、三日続いた。その後、彼は、ジュリアスが派遣した医師に付き添われて、荷馬車で本宅に向かっていた。揺れの中で、また目を覚ましたオスカーは、自分の側に いた者に、 「どこに行くんだ?」と朦朧としながら問うた。
「館は開放されたんです。もう戻っても大丈夫なんですよ」
「そうか……」
 と答えながら、オスカーは、“戻っていいってどういうことなんだろう……”と考えていた。目の前にあるもやもやとしたものが晴れていく……オスカーはそんな感覚の中にいた。ふいにガタンと荷馬車 が大きく揺れた。とっさに見開いた目の先に、騎士が携えていた剣が見えた。
“そうだ! 剣は、あの剣はどこだ?……俺は……俺は?”
 オスカーの心中に、大きな波のような想いが押し寄せる。
「オスカー殿、どうしました?」
 目を見開いたままのオスカーに、騎士が心配して尋ねた。
「俺はどうしたんだ? 剣は?」
「……お怪我をされたんですよ……。剣? 私は知りませんが……」
 騎士は、オスカーが、横腹を刺されたらしいということしか知らない。その経緯は判らないので曖昧な返事をした。
「ああ……そうだ、泉の館で……。父さん……、父はどうしたか知ってるか?」
「ご無事ですよ。クゥアンに向かわれたと聞きました。ジュリアス様の元に」
 それを聞くとオスカーは心底ほっとした様子で、再び眠りに落ちた。
 
 館に戻ってからのオスカーは、日増しに起きている時間が長くなっていた。意識も極めてはっきりしており、農家でずっと側についていた騎士たちから、その間の事や、ロウフォンがラオと旅立った事、ホゥヤン領主が拘束された事などを聞いた。ただ、騎士たちもロウフォンが、クゥアンでどうしているかまでは判らず、待機しているしかないのだと述べた。 数日後には、 オスカーはようやく寝台の上で、体を起こして自力で食事が取れるまでに回復していた。 朝食が済み、立ち上がる練習を始めようとしていたオスカーの元に、息を切らして執事が飛び込んできた。
「た、大変です、大変なんです!」
 執事は、頬を紅潮させて“大変”を繰り返す。
「どうした?」
「早馬が、ま、参りまして。ロ、ロウフォン様がお戻りにッ。もう、領都手前あたりの街道までお戻りになられているらしいのですが……」
 執事は息も絶え絶えに話す。
「父さんが? 良かった。何よりだ。俺も早く逢いたい」
「そっ、それが、あの……、ジュリアス様が遣わされた騎士軍と文官一向を大勢引き連れて……」
「ジュリアス様が、ご配慮下さったんだな。父さんの身を案じて騎士を随行させてくださったんだ。文官は、父さんの仕事を手伝わせるためだろう。ありがたいことだ」
「先頭を何騎もの騎士たちが行き、沿道の者たちに公布して回っているとの事で……」
 父の帰宅を穏やかな気持ちで喜んでいるオスカーとは対照的に、執事は異様なほどに慌てている。
「公布? ああ、領主に父さん一人がなるって事かな?」
「い、いえ、ロウフォン様が、ホゥヤンの王に、と」
「え? 領主に……の間違いだろう?」
「いえ、確かに王と。早馬で伝えに来て下さった騎士殿にも確かめました。間違いなく王と! 詳しい経緯は、ロウフォン様から直接聞くようにと言われましたが……」
 執事は、興奮した様子でそう言った。
「父さんが……ホゥヤンの王? 確かに父さんならそれに相応しいよなぁ。でも、領から国になるって前例がないが……」
 実感がない、というよりは、まだ何かの間違いでないか? と思っているオスカーは、のんびりした口調で言った。
「何を他人事のように仰ってるんですか! ロウフォン様が王なら、オスカー様は、王子になられるんですよ!」
 執事にそう言われて、オスカーは絶句した。
「私はお出迎えの準備を致します。オスカー様は、お体にさわるといけませんから、どうぞ安静になさっていてくださいませ」
 執事は、慌てて去っていった。扉の向こうで、館の働き手たちがばたばたと動き出した音が聞こえていた。

 日が落ちる頃になって、ようやくロウフォンは館に辿り着いた。館の者たちが全員で出迎えると、クゥアンの騎士数名を従えたロウフォンが、疲れ果てた顔をして立っていた。
「ロウフォン様、お帰りなさいませ。ご無事で……」
 執事はそう言うと胸が詰まって泣きだした。去年の暮れ、何も知らずに泉の館に向かったロウフォンを見送ってから、一月以上が過ぎている。謀反を起こしたと伝えられ、その生死すらも判らずに何日も過ごし、館を守ってきた彼の緊張の糸が切れた。まさに滂沱の涙を流している執事に、ロウフォンは手を差し伸べた。
「心から礼を言う。留守中、苦労をかけたな」
「い、いえ。申し訳ありません。ロウフォン様がお疲れになって戻られたのに、このような有様で……。あ、つい失念しておりました。オスカー様は、二階の私室でお休みになっておられます。ここ数日は 、ご自分でお食事もお取りになっているんですよ」
「そうか! では、すぐに逢おう。ああ、クゥアンの騎士殿に部屋の用意を。しばらくは滞在されるのでよろしく頼む」
 ロウフォンがそう言うと、彼の後に控えていた騎士たちが、一斉にその場で頭を垂れた。
「あ、あの……ロウフォン様、早馬の伝令から聞いたのですが、王になられたと言うのは……?」
  執事は、恐る恐るといった風情で尋ねた。ロウフォンは小さく溜息を付いた後、頷いた。
「すまないな、説明は後でするから」
 ロウフォンは、それだけ言うと、オスカーの部屋へと急いだ。
「オスカー! 今、帰ったぞ!」
 ロウフォンは、豪快に扉を開けながら大声で言った。
「父さん! お帰りなさい。申し訳ありません。出迎えもせずに、まだ上手く、歩けなくて。こうやって寝台で半身を起こすのがやっとなんだ」
 腹に力が入らず、まだ大きい声が出させないオスカーは、ロウフォンの声とは対照的に小声でそう言った。
「いいんだ。お前……随分、痩せてしまったな。ああ、でも良かった、意識が戻って本当に良かった」
 ロウフォンは、幼い子どもにするようにオスカーを抱きしめると、その頭をくしゃくしゃと撫でた。
「俺が意識を無くしていた間の事は聞きました」
「ああ。大変だったが、それももう片づいた。我らにかけられた疑いも晴れた。言わなければならないことが沢山あるが……」
 ロウフォンはそこで困った顔をした。
「父さん、王になったってどういうことです?」
 オスカーがその表情を察して、核心に触れた。ロウフォンは謁見の場でいきなり、告げられたことを話した。
「そうですか……。ジュリアス様らしい采配だと思います……」
 オスカーはしみじみとそう言った。だが、何かを気に止めている様子で、ロウフォンの目を、一瞬見た。
「この事はともかく、クゥアンでは本当にいろいろあったのだ……。お前も……気になることがあるのだろう?」
 ロウフォンは、話すのを控えている様々な事柄を心中に留めたまま、まだ傷の癒えていないオスカーの体を思いやって、打診するかのように言った。
「ええ……。どうもずっと引っかかってたんです。俺にホゥヤンに行けと視察の帰りに伝令が入った事を……。泉の館で襲いかかってきた者は、はっきりと俺の命も狙っていたんです。何故、俺がホゥヤンにいることを知っているのだろう?……と。腹を刺されて、焼け落ちていく居間で、俺は、そこにある人物が絡んでいるのでは……とふと思ったんですが、どうやらそれは間違いだったようですね。騎士たちからホゥヤン領主が全ての首謀だったと聞かされましたので……」
 そうは言ったものの、納得はしていない様子でオスカーはロウフォンを見た。
「オスカー、お前が気に留めたその人物の事を、これから話さねばならない。そしてこの結末は、生死の縁を彷徨うほどの怪我をしたお前にとっては、受け入れ難いものになると思う」
「けれど、それはジュリアス様が決断されたことなのでしょう? それならどんな内容のものでも、俺は受け入れられますよ。それに俺はこうして生きているんだし、父さんは、ホゥヤンの王となったのだし」
 オスカーはそう言って微笑んだ。痩けた頬に、今まではなかった陰が出来る。ロウフォンは、自分の息子が、なんとも誇らしく、愛おしい気持ちになった。
「だめだ……歳を取ると、どうも涙腺が緩む。お前……、お前は私の誇りだ。本当に生きていてくれて良かった。そうでなかったら、私は、ツ・クゥアン王のみならず、そんな決定を下されたジュリアス様にまで剣を振りかざすことになったかも知れない……」
 ロウフォンは目頭を押さえながら呟いた。オスカーは少し照れくさそうにした後、「今、ツ・クゥアン王と? そんな決定って?」と言った。オスカーの問い掛けに、ロウフォンは顔を上げた。
「ジュリアス様が、どうか判って欲しいと、私に膝を付いてまで話して下さった事をお前に伝えよう……」
 ロウフォンの話を、オスカーは 黙って聞いていた。そして、自分が意識を失っていた間の、クゥアンでの様子を改めて思い浮かべる。ジュリアスとオリヴィエが、どれほど自分の為に動いてくれたかを思うと、今すぐにでも彼らの元に帰り、礼を言いたい気持ちになる。
「よく判りました。やはり俺もそれで良かったと思います」
 全てを話し終えたロウフォンに、オスカーはそう言った。そして、ずっと気になっていた剣の事を、彼は問うた。
「父さん、あの……剣を知りませんか? あの地下の貯蔵室に俺が逃げ込んだ時に持っていたものを。誰に聞いても知らないと言うんだけれど」
「安心しろ。あれならば、お前があんまりうわ言を繰り返すから、持参してジュリアス様に お見せしたよ。あのままでは使いようもないので、お前の為に短剣に打ち直して下さるとのことだ。」
「じゃあ、あの宝飾品の事も?」
「ああ、聞いた。私も驚いたが、あの剣をお見せしたとき、ジュリアス様もオリヴィエ様もとても驚かれたぞ。ラオ殿の館での事だったのだが……ああ、いかん、すっかり話し込んでしまって 。お前、横にならないと。いや、もうそろそろ夕餉の時刻だ。何か用意させようか?」
「大丈夫。そんなことより、話が聞きたいよ」
「まあ、待て。腹は私が空いたんだ。お前さえ良ければ、ここに運ばせよう。食べながら話そう。どんな細かなことでも、気の済むまで話してやるから、少し待っていなさい。厨係りに伝えてくる」
 ロウフォンは、そう言って部屋を後にした。 父親の背中を見つめながら、オスカーはしみじみと、良かった……と思う。身を起こして、一時に沢山の話を聞いて疲れた彼は、寝台に横たわった。
“あの剣は、今、ジュリアス様の元にあるのか……お見せすることが出来て良かった……。早く元気になってクゥアンに戻りたい……。とりあえず、明日、文を書こう……ジュリアス様とオリヴィエへ……”
 ロウフォンが戻ってくるまでのしばしの間、オスカーは、クゥアンへと想いを馳せた。 
  
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