第七章 1

  
   小高い岩場から見下ろした野原は、ゆるやかな起伏を伴いながら北へと続いている。ラオとロウフォンは、そこに立って様子を伺っていた。クゥアンとホゥヤンを結ぶ本街道と呼ばれる一本道は、その野原を二つに分かつように延びている。新年も七日を過ぎ、畑に出る者や商人たちが、道を行き交うようになった。それは行商人の風情をしている彼らにとっては好都合だった。
「ロウフォン殿、もうしばらくすればクゥアン領に入ります。ここまで来れば、ひとまず安心かと」
「そうですな……ホゥヤン兵らしき者が見張っている様子もないようだ」
「裏街道を行くより、本街道に出て、一気に進んだほうがいいように思うのじゃが」
 ラオの意見にロウフォンも頷く。道の悪い裏街道では、自然と馬が揺れ、騎乗する者の体力を奪う。老体のラオはこのところの疲れが相当溜まっているようで、足腰が辛そうだった。ロウフォンにしても肩の怪我のせいで、ほとんど片腕で馬を御しているような有様だった。
「では、本街道に出ましょう。この岩場の道とおさらばできるのは有り難いことじゃ。もう少し行けば下に出る道があるはず」
 ラオは、馬の手綱を引いて歩き出した。と、その時、ロウフォンが背後から、ラオを呼び止めた。
「ラオ殿、向こうから、早馬の一行が来る!」
 ラオは振り向き、南の方角を見た。三騎、走ってくる。
「紋章がよく見えん。どこの者かわかりますか?」
「あれは……クゥアンの紋章のようだが……」
 ロウフォンは目を細めて、彼らの肩先に付いている紋章を確かめた。
のんびりと歩いている農夫たちを蹴散らすようにして、一行は、あっという間に、ラオとロウフォンがいる岩場を通り越して行った。
「ホゥヤン領主について、事の視察に当たっていた者たちじゃ。それが戻って行ったということは、何か進捗があったか……こうしてはおれん」
「急ぎましょう、ラオ殿。彼らはあの早さでクゥアンに向かっている。よもや、後を気にはすまい」
「灯台もと暗し……というやつですな」
 ラオとロウフォンは、本街道に出た後、息を吹き返したように早く走り出した。
「道さえまっとうなら、まだまだ若いものには負けんぞ」
 ラオはぐいっと手綱を引き留め、馬の尻に鞭を打った。ロウフォンも馬の腹を軽く蹴り、前に進み続けろと合図する。
“オスカー、待っていろよ!”とロウフォンは、ホゥヤンの方をチラリと振り返って思った。ラオは前方を見据え、クゥアンに向かって、“ジュリアス様、オリヴィエ様、すぐに戻りますから待っていてくだされよ”と呟いた。

 夕暮れ。家路を急ぐ者たちや、今日中に物を売ってしまいたい商人の掛け声で、クゥアン城下の町は賑やかである。ほんの八日ほど留守をしただけなのに、ラオは涙が滲むほどに懐かしさを覚えていた。
「申し訳ござらんが、今、しばらく歩いてくだされ。この人手では、その方が賢明じゃから」
 ロウフォンは頷き、町の規模の大きさに圧倒されつつ、ラオの後について馬を引いた。やがて人の波が途絶えたところで、二人は再び騎乗した。家々がぽつりぽつりとした間隔で立ち、両脇を木立に覆われた登り道に出た。

「ここをずっと上がりきった所にクゥアン城がありますのじゃが……。安全策を取ってひとまず儂の館に参りましょう」
 クゥアンまで先に行く騎士一行に、付かず離れず戻ってきた二人は、彼らとの時間差を、せいぜい三時間ほどと見ていた。恐らくは今頃、この一件の窓口になっているツ・クゥアン卿と、謁見しているであろうとラオは読んだ。どんな報告がもたらされているのか判らないのでは、不用意に動くのは危険かも知れない。ましてや、ヤンの言った通り、全ての首謀者がツ・クゥアン卿だったならば……。
 ラオは横道に逸れて馬を走らせた。やや行くと木々の合間からクゥアンの城の尖塔がチラリと見える場所に出た。と同時に目前に石造りの館の正門が見えた。ロウフォンの館に比べれば、半分にも満たない大きさだが、庭の手入れも良くされた立派な邸宅である。
「儂の館の土地は、先々代の王より城の近くに賜わりましてのう」
 ラオは、少し自慢げに話した。
「良い所にお住まいですな」
 ロウフォンは世辞ではなく本当にそう思って言った。何かあればすぐに駆けつける事が出来る距離に置くのは一番、王に信頼されている証拠である。
「ささ、館へ」
 ラオはロウフォンを誘い、帰宅した。
「今、戻ったぞ! 誰か!」
 ラオが門前で一喝すると、館の者たちが飛び出して来た。
「馬を頼む。このお方は、今は名を証せぬが大切な客人じゃ。心してお持てなしせよ。女たちは、湯と食べ物の支度を急げ。儂らは、今しばらく、私室にいる。湯の用意が出来たら知らせにまいれ。お前は儂と供に部屋へ」
 ラオは、下働きの者たちに問う間を与えず、泥のついた靴のまま、どかどかと豪快に館の中に入ると、立て続けにそう言った。供に部屋へ来いと言われた執事は、そういう事に慣れているらしく、ラオとロウフォンが手にしている荷物を、黙礼して受け取ると、彼らの後に続いた。
 私室に入るとさすがのラオもホッとし、大きな息を吐いて、長椅子に倒れ込むように座り込んだ。
「あいすまぬ。客人より先に、腰かけてしまうとは」
 ラオは苦笑しながら言った。
「いや、私も、もう立っておられませぬ、失礼する」
 ロウフォンも、同じようにラオの前に腰掛けた。
「すまぬが、これから城に使いを頼む」
 ラオは執事に向かってそう言うと、自分の側に手招きした。
「よいか。門兵には、ラオが腰を痛めたので、オリヴィエ様に薬を貰い受けに参ったと言って入るのだ。まあ、そんな事を言わずとも我が家の符印を見せれば通して貰えるとは思うが、お前は、オリヴィエ様のお部屋のある塔を知んからな、門兵に案内して貰わねばのう。とにかく必ず、オリヴィエ様に直接、お目通り願い、儂が客人を連れて帰宅したと告げよ。 そして、何とかしてこの館までご足労を願うのじゃ」
 ラオがそう言うと、執事は目を丸くした。王族を館に呼びつけるなど聞いたことがない、と。
「オ、オリヴィエ様にこの館にお出で頂くのですか?」
「無礼は承知の上での事。オリヴィエ様は万事承知しておられる、安心して、そう告げよ。急げ」
 ラオが断固とした態度でそう言うと、長年、彼に仕えている執事は、訳の解らぬままながらも何か重要な事なのだと理解し、頷いた。
「よいか、くれぐれも。直接にだぞ。……他の誰か……、そう、例えば、ツ・クゥアン卿のようなお方に問われても、このもうろく爺が、腰を痛めて苦しんでいるとしか言うなよ」
 ラオはそう釘を刺した。

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