第五章 10

    

その目を閉じないで……。

 体の奥底から響いてくる声にオスカーは、目を開けてそれを見た。一振りの剣だった。先ほどの火事場泥棒の兵士が壁から外して、持ち切れずに落として行った剣のひとつだった。オスカーは、頬を床につけたまま、なんとか手を延ばしそれを引き寄せた。
 朦朧としていてよくは判らないものの、確かに自分とその剣が何かしら惹きつけ合っていることだけが判る。古くなって剣装具の造り替えを予定しているものらしく革紐が巻き付けてある。オスカーは柄の部分と剣身の交差するあたりに 、何か丸味を帯びた石のようなものが付いているのを指で確かめた。オスカーは自分の目前にまでそれを引き寄せて、確かめた。

剣

「……どうして?」
 オスカーはもう一度、それを見た。円形した金属の枠とそれにはめ込まれた石。濃く赤い石。オスカーの脳裏に、ジュリアスが持っているラピスという名の石の宝飾品が甦る。次いで、オリヴィエが肌身離さず首から付けている薔薇色した首飾りを思い出 した。ジュリアスに西に行くことをあらためて決意させたといっても過言ではない、同じ金枠を持つあの二つの宝飾品を。目の前にある剣の飾りは、それと同じ形で、石だけが違うものだった。
「どうしてこれが……」
 何世代も前の当主のものだったのか、父ロウフォンが何処かで買い求めたものか、それは判らないが、この館の収集品の中にあった事は間違いない。
“これをジュリアス様とオリヴィエに見せなくては……、父さんに聞かなくては……この剣のことを……それまでは死ねん!”
 オスカーは、その剣をしっかりと握りしめると、唇を噛み締めて、前へ前へと這った。そして、ようやく居間を抜けて廊下に出た。目の前が僅かに明るくなる。煙の色は黄色味を帯びている。酸素が足りなくなって不完全燃焼を起こしかけていた居間の煙は黒煙で、それに比べるとまだしもましだと思ったオスカーは、奥の間に向かって、また這い出した。低い姿勢で居ざるを得ないことが幸いし、煙を深く吸い込んでしまうことなく、オスカーは前進した。居間から奥の間までは、部屋数にすれば五つほど離れているとはいえ、普通ならばすぐに辿り着けるところにある。途中、何度も意識が途切れそうになる度に、剣の柄をきつく握りしめるオスカーであった。
 奥の間の中も、既に煙が充満し、庭に面した窓際付近には炎が回っていた。裏庭に続く扉の前で、オスカーは再び、意識が遠ざかっていくのを感じた。少し前に傷口に丸めてあてがった紐は、赤く染まりきり、触れればそこから血が滴り落ちた。倒れ込んだ顔に冷気が当たる。外の冷たい風が、扉の隙間から入り込んでオスカーの頬を打つ。
“そう……だ、もう少し……なんとしても……せめて、この剣だけでも……ジュリアス様の元に……”
 オスカーは扉を押す。どうか火が、裏庭の物置小屋には移っていないように……と祈りながら……。
 裏庭には焼けた屋根から出される黒煙がもうもうと立ち込めていた。正面から火矢を放たれていたために、炎自体が裏庭ににある小屋にはまだ移ってはいないものの時間の問題といった様子であった。館の屋根つたいに広がった炎は、裏庭に干してあったとみられる白い台掛布に飛び火し、それら数枚を焼き尽くそうとしていた。オスカーは、剣を杖代わりにして、なんとか立ち上がろうとしたが、膝をつくまでが精一杯だった。いざりながら前へと進む。小屋の扉を開けると、野菜や食物 を入れるための籠が散乱していた。それらを掻き分けると、地下収納庫に続く鉄板の蓋が見えた。女手でも簡単に開けられるように、てこになった取っ手をオスカーは引き上げた。僅かな隙間が出来、それを両手でずらす。体を滑り込ませ られる程度、鉄板が開き、地中に向かって短い梯子がかかっていた。
 だが、オスカーには、そのほんの数段の梯子を降りる体力も気力もなかった。鉄板の蓋が開けられた気配に、中にいた誰かが小さな叫び声をあげたのがオスカーの耳にも聞こえた。
「誰……か……誰か、いる……か?」
 オスカーは言った。もう声もほとんど出ない。返事はなかった。けれど確かに女の声だったとオスカーは思った。下働きの女たちが、いち早く逃れたに違いない……と。そう思った瞬間、オスカーは、地中に向かって落ちた。女の悲鳴が聞こえる。
「早く蓋を閉じて! きっちり締めるのよ! 火が入り込まないように!」
 女は別の誰かに、そう指示すると、上から落ちてきたオスカーの側に近寄って顔を見ようとした。薄暗い地下収納庫の中ではよく判らないらしく、髪や衣装に触れて確かめている。
「誰?! ロウフォンの者なの?」
「オ……スカー……だ」
 それを聞くと女は、奥に向かって叫んだ。
「ロウフォン様! オスカー様です! オスカー様が!」
“ロウフォン?……よかった……父さんご無事で……。剣を……この剣を……どうか……”
 オスカーは、例の剣をしっかりと握りしめてそう思っていた。ロウフォンは女の叫び声を聞き、家臣の騎士に抱えられて立ち上がった。彼もまた肩先から腕にかけて深い傷を負っている。
「オスカー! しっかりせよ! オスカー!」
 ロウフォンの、父の声がオスカーに耳に微かに届いた。
「……剣を……、これを……、ジュリアス様に……俺の……代わりに西へ……」
 それだけ言うとオスカーの意識は急速に遠退いていった。


 ロウフォンの泉の館が燃え落ちていく様を、ホゥヤン領主は、そこから少し離れた林道から見ていた。側に控えているのは、先刻、館内でロウフォンと戦っていたあの騎士だった。歳はロウフォンより十ほど若く、ホゥヤン領主の補佐官として仕えていた男だった。腕や頬に怪我を負っているが、それを特に気遣う風でもなく、ホゥヤン領主は彼から報告を聞いている。
「……それで、ロウフォンにとどめは?」
「それが……肩から斬りつけ、後一歩というところで、部屋の天井が崩れてきました。それでもなんとかとどめを刺そうとしたのですが、ロウフォン付きの騎士が、叫びながらこちらにやって来たので、退却せざるを得ませんでした。私もかなり傷を負っていましたし、室内には煙が充満して……」
 それを聞くとホゥヤン領主は、舌打ちをした。
「ですが、その後、館内からロウフォンが出た気配はありません。私が館から脱出する時に入り口付近 に、さらに火をしかけましたし、厨から裏に続く木戸も燃やしました。窓という窓の天幕には既に火が付いていて、そこから逃げることも不可能です。そのまま焼け死んだかと……」
 奥の間から裏庭に続く小さな扉があることを知らない男は、自信たっぷりにそう言った。
「ヤツの息子はどうした?」
「弓使いの男が、オスカーの太ももに手傷を負わせたことは確認が取れております。足をひきずり、親の安否を気遣って館内に入ってきました。私がロウフォンと戦っている時でした。ロウフォンは、居間にいるクゥアン領主を助けに行くように言い、オスカーはそれに従いました」
「オスカーの遺体の確認は?」
 ホゥヤン領主はいらいらした様子で聞いた。
「こちらもまだできておりませんが……」
「ええい、詰めが甘いわ! 確実に殺れと申したであろう! まさかクゥアン領主の死も確認できていないと言うのではあるまいな?」
「クゥアン領主につきましては、兵士が遺体を確認しております。居間の焼け落ちた梁の下敷きになって絶命していたようで、証拠の指輪も持参しておりました」
 それを聞くとホゥヤン領主は、ようやく深く頷いた。
「オスカーは助けに居間に行ったはずだろう? ヤツはどうしたのだろう?」
「兵士たちの話によると、居間もかなり煙が酷く、天幕に火が移り、天井からは火の粉が降り注ぐような有様だったそうです。落ちた梁はかなりの太さのもので、オスカー自身もその下敷きになっている可能性があります。ヤツも館から出た様子はありません」
「まあよい。鎮火したらすぐに調べさせろ。館付近の見張りは残しておけ。ロウフォンの本宅の見張りも怠るなよ」
「承知しております。万が一、ヤツらが逃げ帰ってくるような事があれば、その場にて処分致します」
「うむ。では手筈通りに。私は一足先に館に戻っている。良い知らせを待っているぞ。じきに、この事を報告しにクゥアンに向けて発たねばならぬからな」
「はっ」
「わかっているな。私が一芝居打って、この国を取り戻すことが出来たなら、その時は、お前が宰相となってこの国を自由に出来るのだぞ。私は政治には興味がないのでな。私はお飾りの王という地位さえあればいいのだ 」
 ホゥヤン領主が、そう言ったとき、一際大きな轟音が響いてきた。視線を火事場に移すと、最後に残っていた館の奥の辺りの部屋が焼け落ちたところだった。美しい泉の館の全てが燃え尽 き、その炎と同じように赤い夕陽が沈もうとしていた。

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