第六章 1

    
 新年まで後五日、謁見の間やジュリアスの執務室のあるクゥアン城の主塔も慌ただしい雰囲気に満ちていた。そんな中、ジュリアスは、モンメイ王リュホウに宛てて、長い書状をしたためていた。今からだと、その書状がモンメイに着くのは、年が明けて数日後になるばすだったから、新年の挨拶をまず記した後、造船に必要な良い材木を大量に都合して貰った事への礼などを、丁寧に述べた。そして、オリヴィエの様子を書き綴った。騎士に必要な武術の力をもう充分に身に付けている事や、彼の存在は城内のみならず城下や、近隣の領地まで知れ渡り、謁見や茶会、夜会の招待状が、連日届いている事など……。
 ジュリアスは、ふと手を止めて耳を澄ました。だが何も聞こえない。
“今、何か音色が聞こえた気がしたが……気のせいか……”
 ジュリアスは、また視線を書面に戻した。そして、文末に自分の名を書き記した。羽根筆を置き、側にあった茶杯を手に取ろうとした。その中で、波紋が広がった。
「?」
 ジュリアスは、小さな波紋を見つめて、小首を傾げた。まだ茶杯には手を触れていない。部屋や机が揺れたわけでも何でもない。なのに何故、波紋が? ジュリアスは、また何か聞こえた気がして、耳を澄ます。彼の耳は、小さな高音を捕らえた。
「やはり何かの弦から出される音だ……」
 ジュリアスは、立ち上がり窓辺に向かった。窓を開けて四方を見た。ジュリアスが、今いる主塔から、やや見上げた所、向かいにある塔の、中程の階の張り出し窓枠に斜めに腰掛けたオリヴィエが見えた。ジュリアスは、目を凝らして、さらに見た。
“月風琴に似ているが……少し形が違うような……モンメイの物なのかも知れない”
 オリヴィエの膝の上には小さな木の胴を持つ楽器が乗せられている。獣の皮が張ってあり、何本かの弦を持っていることが遠目ながらにジュリアスにも判った。馬の尻尾の毛を張った弓で擦って演奏をする琴の類であることは間違いなかった。
 高い音が、二度三度と、つま弾かれて、静かに音律が重なり合う。書き記せば、単純な音だけの組み合わせの小曲であるのに、そのまま窓を閉じて執務に戻る気にはなれず、ジュリアスはその曲を窓辺に佇んで聞いていた。
 ふと、ジュリアスはもう十年以上も前の、“あの日の事”を思い出した。
 
 その年は、悪天候が続き、秋になっても作物は思うように収穫できなかった。元々、土壌の良いクゥアンでは飢饉にまでは至らなかったが、西に隣接する国では、貢租を巡って各地で内乱が起き、クゥアンの食物貯蔵窟が、襲われるという事件が起きた。飢えた民がしたことであるからと温情を持って接したクゥアン側の善意を裏切るように、また同じような事が起きた。三度目……事件の首謀者が、貧しい民ではなく、事もあろうにその国の 王であると判った時、ジュリアスは兵を挙げて、躊躇なく王を断罪した。初めて他国の王を、人を切った、あの日……。
 恐ろしくも、悲しくもなかった。返り血を浴びずに上手く切るにはどうしたらいいのだろう? と、醒めた目をしてジュリアスは思っていた。剣の血を拭いながら、ふと……頭上を鳥が飛んでいくのが視野に入った。西へ飛んでいく。雲ひとつない空を切り裂くように。鳥はやがて見えなくなった。ジュリアスの視界の中に、遠くに見える山々だけが残った。
 空の高さと彼方に見える大山脈、そして広大な大地。この風景の中に生きている自分と、たった今、断罪したばかりの骸。
“天から使わされたからと誰もが金色の髪を持つ自分を、特別の者として大切に扱ってくれる。では、私以外の者の命は、天から授かったものではなく大切にするに値しないのか? そんなことはないだろう。そもそも、命とはどこから生まれ、どこへ逝くのか……“、誰もが大人になる過程でふと思う謎に、十 五歳の少年であるジュリアスはこの時、 対峙した。父王の後を次いで、ただまっすぐに王道を歩いてきたジュリアスが、立ち止まった瞬間だった。【自分が何者なのか】体の中から沸き上がる気持ちを押さえきれずに、ジュリアスはただ、遠くにある大山脈を睨み続けた。
その時、ふいに声がした。

来い。こちらへやって来い。
お前に逢いたい……。


まだ年若い者の声のようにジュリアスは感じた。自分と同じ位の。
お前は誰だ?
私を知っているのか?
ジュリアスは心の中でそう言葉を返した。そして回りを見渡した。戦いで出た負傷者の手当をしている兵士たちと、立ち尽くして、その場から離れようとしないジュリアスを気遣うように見守っている騎士たち以外には誰もいなかった。
待っている……。
もう一度、声がした。ジュリアスはハッとして振り向き、再び、大山脈を見た……。

「ジュリアス様、恐れ入ります。ツ・クゥアン卿付きの文官が、書類に署名を……といらしております。隣室にてお待ち戴いてます……」
 十年前の出来事を思いを馳せていたジュリアスを、現実に引き戻す声が、彼の背後でした。若い文官が、窓辺で佇んだままのジュリアスに、そう声をかけたのだった。
「ああ、すまぬ。オリヴィエが、何か曲を弾いていたので、つい聞いてしまっていた」
 ジュリアスがそう言うと、若い文官は持参した書類を、ジュリアスの机に上にきちんと揃えて乗せた後、こう言った。
「ええ。自分も聞いていました。不思議な音色のように聞こえました。あ……いえ、音色は、琴のもののようですが、何と言いますか……音そのものが耳に入ってくるのではなくて、何か絵が入ってくるような……」
 文官は上手く言葉にできないらしくそこで黙り込んでしまった。
「ほう? どのような絵が入ってきたのだ?」
「はい……。あの……自分が十の時、ジュリアス様の成人の儀があり、付近の村の中から学徒代表を選んでお祝いの品を献上することになりまして、自分がその名誉を仰せ付かったのです。その時に、今まで住んでいた山間の小さな村を出て、クゥアン城下へ来ました。自分の住んでいた貧しい村とは違い、整備された美しい町でした。学徒ということで、 特別に文官に城内の書物庫に案内して貰いました。その天井まで続く書棚……村には学校に十冊ほどの本があるだけでしたから本当に驚きました。入り口近くの低い書棚にクゥアンの歴史書があり、同じような内容のものが複数あったので思わず手に取り……自分は……黙ってそのまま布袋に入れてしまったのです。それを見つけた文官は、次に来た時にきっと返すようにと……」
 文官はその光景がよっぽど心に焼き付いているらしく胸を詰まらせてそう言った。
「黙って頷くしかありませんでした。その事があったから、自分は、今こうしてクゥアン城にて文官としてお仕えできているのです」
 クゥアン城内付きの文官や騎士たちのほとんどは、それなりの審査がなされているとはいえ、王都やその近郊に居を構え身分ある者の血縁者である。ジュリアスの祖父の時代から、一般の民 の登用法として試験制度が用いられた。書物もほとんどないような地方の山村の者がこれを受けて、採用に至るには、いかほどの努力が必要であったか……と思うとジュリアスは、「そうか……」と短く答えるのが精一杯だった。
「それにしても不思議であるな。私も昔の事を思い出していたのだ。そなたと同じように、自分の転機となったような出来事をな」
「自分は……なりたくて、なりたくて文官になったのです。それなのに最近は、仕事の愚痴ばかりこぼすようになっていました……。ふと今、その時の事を思い出して心が洗われていくようでした。オリヴィエ様にはそういう天性がおありなのかも知れません。日々の生活を重ねていくうちに凝り固まっていく心を解き放させるような、そんなお力があるのかも知れません……」
 ジュリアスは黙って頷くと、再び、視線をオリヴィエに移した。弦の調節をしているらしく、俯いて弦軸を触っている。ふと顔を挙げたオリヴィエと、ジュリアスの視線があった。オリヴィエは弓を持つ手を高々と挙げて振る。ジュリアスは、それに軽く答えると 、手で皿と茶碗の形を作り、“茶でもどうか?”と飲む仕草をした。オリヴィエは、大きく頷き、隣塔の窓辺から消えた。
 ジュリアスは、茶を所望する印であるよく響く鈴を、数回打ち鳴らした。隣室に控えている女官が顔を出した。オリヴィエの為の茶を用意するように伝えると、ジュリアスは、机の上にあった書類に目を通して点検し、署名を記して、先ほどの文官 の名を呼んだ。
「これをツ・クゥアン卿の文官に。待たせてしまったな。詫びておいてくれ」
「はっ。それではお渡ししてきます。……あの……先ほどは、執務中に詰まらぬ話をお聞かせしてしまい申し訳ありませんでした」
「何を言う。良い話を聞かせて貰った。そなたのような者に仕えて貰えて私は幸せだ」
「そんな……勿体ないお言葉を」
 文官は深々と頭を下げると目に涙を溜めて、ジュリアスの前から下がった。彼が書類を携えて執務室から出るのと入れ違いに、オリヴィエが走って来た。女官は、湯気のたった二人分の茶を用意すると黙礼し、控えの間へと戻って行った。
「お招きありがとー。冷えてきたから暖かい飲み物が欲しかった所だよ。ねぇ、ジュリアス、あの文官、泣いてたよ。いじめた?」
「いじめただと?」
 オリヴィエの子ども同士の喧嘩の咎めるような口ぶりに、ジュリアスは笑って答えた。
「人聞きの悪い事を。彼が泣いていたのは、元はと言えばそなたのせいなのだぞ」
「え? どうしてワタシのせい?」
「そなたの演奏があまりにも素晴らしくて、心が打ち震え涙したのだ」
「笑いながら言ってるからぜんぜん説得力ない。嫌な人だね」
 オリヴィエは茶器を手に取ると、椅子には座らずに窓辺へ移動した。
「年明けまで後ちょっと……楽しみだねぇ、年越しの祭。今年は花火も上がるって聞いたよ」
「ああ。城下の者たちから、今年はそなたを歓迎する意味で、いつもより多目にあげさせてくれと申請があったらしい。城の者も皆、楽しみにしている」
 ジュリアスはオリヴィエの側に行った。そして窓の外の夕陽を見た。
「この様子では穏やかな天候の年の暮れになりそうだな」
 ジュリアスの言葉がそう呟いた時、窓の外で馬の軽快な足音がした。
 オリヴィエは、思わず、窓から乗り出して外を見た。
「違った。オスカーだと思ったよ。おとといには戻ってくると思ってたのに遅いねぇ。」
 赤く染まった空に目を移してオリヴィエは言った。
「少し遅れてはいるようだが、明日にでも戻ってくるだろう」
 ジュリアスは茶卓台まで戻り、椅子に腰掛けて、茶器を手に取った。
「今頃は王都の手前あたりの宿に着いた頃かな? きっと、『俺の心はこの夕陽のように赤く熱く燃えているんだぜ……』なんて言いながら誰かを口説いてるんだよ、きっと」
 オリヴィエもジュリアスの前に座り直した。
「そのような陳腐な科白に口説かれる者がいるとは思えないが……」
 ジュリアスは眉を顰めた。そして二人は笑い合った。
 
“ジュリアス様……”
 ふと、オスカーの声がした気がしたジュリアスは、茶を飲もうとしていた手を止めた。
“オリヴィエ……”
 名前を呼ばれた気がしたオリヴィエは顔を挙げた。
 ジュリアスとオリヴィエは、顔を見合わせて、二人してもう一度、窓辺まで行き、外を見た。城門から林を抜けて真っ直ぐに続く石畳みが見えているが、そこには誰もいない。落ちていこうとする夕陽が作る木々の長い影だけが、二人の目に寂しげに映っていた。

■NEXT■