第五章 9

    
“最初から……何か変だった……”

 朦朧した意識の中で、オスカーは、ホゥヤンの手前の駐屯地で伝令を伝えられた時の事を思い出していた。
 文書ではなく口頭の伝令……、記憶と違う文官……。
“文官……手綱さばきが颯爽としている……足の不自由な……? そうあの衛兵は言ったが……”
 オスカーの脳裏に、ふいに、一人の男が浮かび上がってくる。

 ホゥヤンからクゥアンに出て半年ほどした頃の事。騎士試験の前、元老院やジュリアスを招いて演習が開かれることになった。それは、馬上で木刀を持って戦う実戦さながらのものだった。体つきは細く騎士向きではないようだったが、馬の扱いを得意とするその男も、オスカーと一緒に騎士試験を受ける事になっていた。オスカーが、やって来る前は、彼がジュリアスの乗馬の相手役を務める事が多かったことを噂で聞いていたオスカーは、良い友になれればと思って、よろしくと笑顔で手を差しだした。だが男は、オスカーの手に触れもせず、名すら言わなかった。演習が始まったが、その流麗な綱さばきにオスカーは苦戦した。相手には木刀を交えて戦うという意志はないようで、ひたすらオスカーの剣をかわして、自分の馬さばきの 上手さを見せようとしているようだった。オスカーが相手を打とうとすると、踊るように交わす。その度に、感嘆の声があがる。木刀を振り回しているだけのオスカーはまるで道化のようだった。
「馬の扱いに長けていると聞いたが大したことはないじゃないか、ホゥヤンの田舎では一番の乗り手かも知れないがな。ただ早く走るだけなら、ジュリアス様もすぐに飽きられるはずだ」
 小馬鹿にしたような小さな笑い声とともに男はそう言った。オスカーは無闇に突くのをやめ、相手を見据えた。それを男は、オスカーが怒りの為に平常心を失ったと見て、反撃に出た。馬の扱いほどには、剣は扱えないらしい……突きが甘い……そう見てとった瞬間、オスカーは、今まで、その男が見せていたのと同じ様な俊敏な綱さばきで、馬を右へ一歩分だけ歩かせると、くるりと反転させた。空突きする形になってしまった男 の小手先を打ち据えると、彼は均衡を崩し落馬した。その時に運悪く足の筋を痛めた。後になって、男は結局は怪我が回復せず、試験を諦め、文官になったことをオスカーは知った。試合や演習の場で、相手に怪我をさせてしまうことは珍しいことではない。故意にしたことでなければ、誰からも咎められる事ではないし、それを負担に思い、よけいな同情をすることはかえって、その相手に失礼になる……オスカーは、この演習での出来事は、その後、気に留めることはなかった。

“そうだ……あの男だ……彼は、確かツ・クゥアン卿付きの文官になったはず……何故、彼が? ツ・クゥアン卿の命で、ジュリアス様付きの文官の名を名乗り、偽の伝令をよこして俺を……ホゥヤンに入らせた?”
 オスカーはぼんやりとそう思った。そして、先ほどの庭先で自分の命を狙ってきた者たちの言葉を思い出した。

 オスカーだ……
 報奨金が貰える……
 死ねば都合がいい……

 
 ツ・クゥアン卿によく思われていないことは知っている。だが命を狙われるほどに憎まれているとは思えない……とオスカーは、その文官が独自でしたことかと思い直したものの、すぐにその考えを打ち消した。
 
“五元盤の会合を持ちかけてきたのも、ロウフォンやクゥアン領主を亡き者にしようとしているのは、間違いなくホゥヤン領主だった、一介の文官 に、そこまでの企みを単独で実行は出来やしない……それにホゥヤン領主と繋がりが見つからない。やはり背後にツ・クゥアン卿がいるのか? では、ツ・クゥアン卿とホゥヤン領主の接点は……? 外務担当ならば、謁見しあうこともあっただろうが、こんな策略を組むほどの……あ……ああ!”
 一本の線が繋がっていくのが、オスカーに判った。

『ホゥヤン領主は、クゥアンに留学されていた事があって、五元盤を覚えたらしい……』

“そうだ、父さんはそう言ってた。その留学先がツ・クゥアン卿の所だったのか……? 二人は年頃も近い。ホゥヤン王族のものともなれば、その受け入れ先も、よっぽどの名家であらねばならない。ツ・クゥアン卿の元に彼が滞在していたとしたら? 二人が旧知の仲で、私用でも常々、連絡を取り合っていたとしたら? だが……”
 オスカーはそこで行き詰まった。

“敵対するクゥアン領主を殺し、その罪をロウフォンになすりつけて亡き者にしてしまえば、ホゥヤン領主の一人勝ちになる。だが、ツ・クゥアン卿が、そんなことに荷担して、 ついでに俺を殺してどれほどの得がある? 何年も前のいざこざを根に持つような器の小さい人には思えない……”
 ツ・クゥアン卿は苦手な相手ではあったが、その手腕は尊敬に値するとオスカーは常々思っていた。
“何故だ……”
 どくんと脇腹が疼いた。生暖かい血が、またじわじわと床に広がっていくのがオスカーにも判った。
“何故だ……”
 もう一度、オスカーは問いかけた。遠ざかっていく意識の中で、彼は瞳を閉じた。

“オスカー、オスカー! しっかりしなってば!”

 オスカーは幻聴を聞いた。オリヴィエの声だった。幻覚も見える。金色の髪が、風の中でふわりと後に流れている。
 モンメイからクゥアンに着くや否や、元老院の者たちに逢ったオリヴィエが、言った言葉が甦る。
 
 『……どんなに欲しくても手に入らなかったものがやってきたんだからねぇ……ワタシは決して元老院の者たちの姫には手を出さないから安心して』

“ジュリアス様と同じ……金色の……髪……そうか……そうだ……俺じゃない、俺じゃないんだ……ツ・クゥアン卿は、俺だけを亡き者にしたかったんじゃないんだ……ジュリアス様だ……ジュリアス様にとって代わろうと……なんて事を……。あのクゥアン卿でも、そんなことを?……俺が邪魔だったのか? 俺が死ねば第一騎士団は休止状態になるかも知れない。 ジュリアス様の勅命で動く俺たちをまず潰す……、それにジュリアス様だって……、俺が死んだら……やっぱり、辛く思われるかも知れないよな……ジュリアス様の心の隙が……”
 自分の死が、完璧とも言えるジュリアス王政を崩す糸口になる。聡明なツ・クゥアン卿ならば、ほんの些細な隙間を広げて、取り返しのつかない所のまで引き裂くことも不可能ではないだろう。
 
“このままでは、たぶん……ロウフォン家が起こした内乱として報告されてしまうに違いない……。父さんも……もし、父さんも殺られてしまっていたなら……本当に、死人に口無しだ……いや、俺の家の名誉なんかどうでもいい……ジュリアス様が……ジュリアス様にこの一件の全貌を……伝えなくては……”

 オスカーは、力を振り絞り前へ、前へと這った。奥の間には裏庭に続く扉がある。そこを出てすぐの所に、厨に続く小屋がある。野菜や果物を蓄えておく貯蔵庫だった。その中に、葡萄酒や酢漬けといった類の常備食を保管する地下壕がある。夏場でもひんやりとして外気を通さない。何本か長く伝わせた管から取り込む空気は新鮮で、食べ物が腐りにくいと下働きの女たちが嬉しがっていた。

“館が燃え尽きようと、あそこに逃れられたならば、助かるかも知れない……だから父さんは逃げろと言った。館は取り囲まれていて、焼け落ちようとも、逃げろと……もし父さんも無事なら、きっとあそこに逃れたに違いない……”
 
 散乱する家具や武器、崩れた天井の建材や梁を掻き分けて、オスカーは体を這わせる。動くたびにドクドクと血が流れていく。側にあった長上衣の結び紐を丸めて、傷口に押しつけて腰帯に挟み込む。止血の役目には気休め程度にしかならないが、それでも傷口が直接、床を擦るよりはましだった。目が霞む。大きく見開いても、前方がぼうっと多重に見えてくる。踏みつけられて歪んだ盾を押しのけて前に進もうとするのに、それが出来ない。オスカーの両腕は、体を支えることができず、力尽きる。顎が床に着く。オスカーは、そのまま頬を床に着かせた。楽になりたい……このまま瞳を閉じて眠りたい……その衝動にオスカーは耐えきれなかった。
 
“…………俺は馬鹿だった……もっと注意深く行動していれば良かったんだ……浮かれていた……西へ行く為の船が、あんなに立派に出来上がりつつあって……オリヴィエとジュリアス様が喜ぶと思って、浮き足だってた……いいや……浮わついていたのはもっと前からかも知れない……騎士となって、第一騎士団をまかされて、ジュリアス様や他の者たちの信頼も得られて……そして……オリヴィエと……。誰もが近づきになりたがったオリヴィエと仲良くなれて……心のどこかで、浮ついていたんだな……。そんな俺の事を、ジュリアス様は判ってらしたのかも知れないな……だから視察に出向く前に、俺のこれからの事なんかをお尋ねになったんだな……“
「オリヴィエ……、ジュリアス様……俺はもう西へは一緒に行けません……父さん、申し訳ありません……」
 オスカーがそう呟いた次の瞬間に、物心ついた幼い頃から、今までの自分の様々な出来事が彼の頭の中を流れていく。

 一人で遠乗りに出掛け迷子になってしまった夏の日の午後の事、ジュリアスが、良馬を求めて牧場に初めてやってきた日の事、病気の母親に付き添って養生に出掛けた村で出逢った可愛い少女の事、 不注意で命を落とさせてしまったあの馬の事、何かが面白くなくて仲間と飲んだくれたあげくに、酒場の見知らぬ女とはじめての朝を迎えてしまった事、クゥアンに来て、知り合いもおらず不安なまま迎えた夜の事、騎士試験に合格し 、ジュリアスから剣を手渡された時の事、金の髪を持つ者の噂を聞き、クゥアンに戻る帰路で見た夕陽の事……そして、オスカーの記憶の回帰は、モンメイに向かうところで一旦止まった。
 またオリヴィエの声が聞こえたように、オスカーは思った。

“こんな所で何してんの! オスカーの馬鹿!”

「だから、さっきからなんべんも俺は馬鹿だったと後悔してるよ……」
  力無くオスカーは呟いた。

“オスカー。反省はしても良い。明日に繋がるような反省ならば。後悔して、いつまでもいじけるような事はしないようにしろ……と子どもの頃から何度も言ってきたではないか?”

 今度は、父、ロウフォンの声だった。
「すみません、父さん。もう反省しても俺には明日はないんです……」
 声が掠れて出ていなかったが、オスカーはそう言ったつもりだった。

「オスカー、眠るな! 起きろ!」

 最後はジュリアスの声だった。
「ジュリアス様、だって眠いんですよ……とても。今日は、執務を休みます。休暇届は後で……後で出し……ます……から」
 頭の中が混乱していた。今の状況も何もかもが、真っ白に消されていく、そんな感覚の中でオスカーは、一層深い眠り……死へと落ちていこうとしていた。

 「オスカー、許さぬ。目を開けろ! そして……」

  再び、ジュリアスの声がした。
“そして……? もう、本当に俺は眠いのに……”
 オスカーは重い瞼を、微かに開けた。
「開けましたよ……ジュリアス様、これでもういいですね……」
  再び閉じていく瞼の角に、キラリ……と何かが光るのが見えた。直ぐ側で。手を延ばせば届く所で。 もう誰の声もしなかった。ただ、オスカーの、自分の裡から声がしていた。

その目を閉じないで、見ろ……何があるのか……。
その目をこじ開けて、確かめろ……。


  楽になりたいと、オスカーの体は願っていた。心もそれに従おうとしていた。 だが、オスカーの中の深い所で、瑕が……それを拒んだ。

白光艶やかな羽根が舞う。見たこともない鳥が羽根を広げている。
その向こうに微笑む誰かがいた。女神のような人……。
その人は、優美な杓を振り下ろす。赤い……燃えるように赤い石に亀裂が走る。傷が……いや、瑕がつく。 刻印のように、瑕が……。

  オスカーの中に最後に残っていた意識が、彼の瑕を引きずり出した。
何かと自分が、呼応している……のをオスカーは感じた。
  オスカーは目を開けた。今まで持とうとした何よりも重いと感じる自分の瞼を。 強い意志の力で……見開いた。

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