第五章 2


  風の強い午後だった。ざわざわと枯草を揺らす音が、神経を鈍らせる。寒さで体も硬くなっている。狩りには不向きの日だったが、オリヴィエは、老騎士ラオと供に、中央平原に出ていた。ラオは、第一騎士団の年長者であり、オスカーの留守の間を仕切っている老騎士である。

“ジュリアス様に、剣の持ち方からお教えしたのが、何を隠そうこの儂じゃ”が、口癖であり、好好爺といった風情の彼だが、馬や剣の扱いは、未だ衰えを知らず、騎士試験の監督長も務める強者である。
 そのラオは、今年最後の狩りにオリヴィエを連れ出した。時間が取れたからという理由もあるが、狩りには難しい条件の日を選んだのには彼なりの理由があった。騎士試験のひとつ、ラジェカル狩りに、オリヴィエは弓を使うつもりでいる。風に矢が流されることもあると考えて、悪天候の時の訓練というわけである。

 平原の……と言っても川もあれば、木々の茂った場所もあるのだが、その木陰に身を顰めて、オリヴィエとラオは、薄い茶に黒の縞模様、鋭い牙と爪、瞬発力のある足を持つラジェカルの群れが、水を飲んでいる様子を見ていた。 冬支度を始めているらしく、単独で行動することの多い若い雄までも、一塊の群れになって移動している。ひとしきり水を飲んだ後、リーダー格の雄を先頭に群れは引き上げていく。最後尾には、やや離れて若い雄が付く習性がある。後から敵がやって来た場合、彼が囮となり、雌や子どもを先に逃す役割を担っている。オリヴィエがこれから狩ろうとしているのは、その若い雄である。
 オリヴィエは、馬に跨り木陰から、そろり……と出た。最後尾にいたそのラジェカルが、気配を感じ、振り返った。オリヴィエの姿を捕らえた彼は、低い声で唸る。それを合図にして、他のラジェカルは一斉に走り出す。仲間が充分に逃げ切ってしまうまで、彼は、その場で、オリヴィエを威嚇し続ける。オリヴィエが 、馬の脇腹を蹴り走り出すと、そのラジェカルもまた走り出した。
 この人間が弓を使うと察知しており、体を低くして、動き回って逃げる。すぐ背後までオリヴィエが来たときは、ひょいと逆の方向に身を翻し間合いを計りながら走る。オリヴィエは一矢を放つ。それは、ラジェカルの右の腹を掠めた。すると、彼は反射的に左に体を翻す。今度はそれを追って、オリヴィエは左に矢を放つ。オリヴィエとラジェカルの前方に浅く狭い川が見えた。川の向こうは、ゴロ石が広がる地帯で、馬 がそこを歩くのを嫌う事をラジェカルは知っていた。そこに逃げ込めば、追っては来られないだろう……と。そして、後脚で大地を思い切り蹴る。
「さあ、跳べ!」
 オリヴィエは叫んだ。………それで終わりだった。

 ラジェカルの前脚は再び、大地を踏まなかった。川を越えようと飛び上がった空中で、オリヴィエの放った矢が彼の心臓を貫いた。その体は、浅い川の中に落ちた。
「オリヴィエ様、仕留めましたな」
 オリヴィエの後から狩りの様子を見ていたラオが、満足そうに言った。
いち早く、馬から降りた彼は、川の中からラジェカルの体を引き上げた。ラオがその体をひとなでしただけで、油の乗った若い雄の毛は水を弾く。
「良い毛色ですじゃ。一矢で心臓を貫いていて、ラジェカルが苦しんだ様子もなく、血もほとんど流れていない。満点ですな」
 オリヴィエも馬から降りて、それを確かめる。
「ラオ爺の指示通り、川まで追いつめることが出来たからね。今日は風が強すぎる、矢が風に流されて難しかったよ、このラジェカルが高く跳ばなかったら放てなかった」
「さよう、若い雄は、ついつい高く跳んでしまう。弓を使うものには、身を低くしなくてはと知っていても。使い古された台詞ですが、若さ故の過ち……というやつですな」
 老騎士の言葉に、オリヴィエは素直に頷いた。
「こんな悪天候の日だと、弓だけでなく剣も使って狩りが出来た方がいいね」
 オリヴィエはそう言うと、自分の腰に差してある長剣を見た。
「そうですな、後はギリギリまで追って、剣で仕留める。オスカー殿やジュリアス様などは、その方がお得意ですがのう」
「今日のような狩りだと騎士の称号、貰えるかな?」
「どう猛なラジェカルを相手に、品のある狩りでしたよ、もしこれが本番の試験なら、儂は、騎士の称号を元老院に自信を持って推薦するつもりですじゃ」
 ラオはにっこりと笑った。
「ありがとう。じゃ、戻ろうか。ポツポツ降ってきたみたいだよ」
 オリヴィエは、ラジェカルの足を素早く縛り上げると、自分の馬の上に置いた。 もっとも体の大きいボス格のものではないにしろ、そこそこの重さがある。剣の稽古で上腕を鍛えていなかった以前のオリヴィエならば、持ち上がらなかったかも知れない。
「ふう……ワタシが初めて仕留めたラジェカルだもの、皮を剥いで敷物にして兄様に送りつけてやろう。あの人のことだから、足ふき程度にはなったぞ、なんて憎まれ口を叩くよ。きっと」
 オリヴィエは楽しそうに言うと馬に乗り手綱を引いた。ラジェカルを積んでいるのに、その不自由さもさほど感じさせない慣れた手つきで、馬の方向を変える。そういう細かい所作までを、ラオは見ている。そして満足気に頷いた。
「オリヴィエ様、ラジェカルの始末ももちろんですが、馬の扱いも上達されましたな。モンメイを出られた時は、馬を止めるのもやっとでおられたのに」
 そう言いながら彼は、自分も馬に乗り、オリヴィエの真横に付いた。
「頑張らなくっちゃね。オスカーったら、もし騎士の試験に落第したら、第一騎士団から外すって言うんだもの」
「おや、オリヴィエ様、ジュリアス様などは、モンメイに帰ってもらうと仰せでしたぞ」
「もう、二人とも意地悪なんだから……って、ラオ爺……それはあんたの作り話だねっ」
 オリヴィエは、ラオを睨み付けた。ラオは、豪快に笑いながら誤魔化した。
「ところで、オリヴィエ様……」
 ひとしきり笑った後、ラオは急に小声になった。
「どうしたんだい?」
「実は、そのオスカー殿の事なのですが……最近、元老院の方々の間で、評判がよろしくない」
「そんなの前からだろう? 第一騎士団は、ジュリアスの直属だから、元老院が口だしできない所があって、目障りに思ってるって。それとは別にオスカー自身が、って事? そう言えば、前にツ・クゥアン卿と何かあったとかチラリとオスカーが言ってたけれど ?」
 オリヴィエは、馬をラオのすぐ近くまで寄せて尋ねた。

「オスカー殿は、ホゥヤンからいらした時から、一際抜きんでてた実力で、目立っていました。儂ら古参の騎士仲間の間でも注目しておりましたのじゃ。ツ・クゥアン卿も目をかけておりましてな。オスカー 殿を、ぜひ末娘の婿にという話が持ち上がりました。オスカー殿は、まだ年若く騎士の称号も得ていない身分、その申し出は異例とも思えました」
「へぇ……先物買いってとこだね 。末娘……か、この間、お茶会で逢ったよ。なかなか器量も頭も良い女性だったけど、オスカーとの縁談が持ち上がった頃は、まだ随分若かったんじゃない?」
「ええ。まだ十五かそこらでしたかのう。ともかく、オスカー殿にとって悪い話ではありませんでした。ですが、オスカー殿は、何よりもまず騎士の称号を取ることに専念したかったのと、配下に置かれた国と言えどホゥヤンでは屈指の名家の長子、おいそれと他家に婿に入るわけには行かなかったのでしょうな」
「その申し出を断ったわけか……。それで、ツ・クゥアン卿は、恥を掻かされた形になったわけか……」
「はい。それに、元老院の方々は、オスカー殿が、第一騎士団の長だけでなく、いずれ元老院に入って来るのではないかと危惧されているのです」
「オスカーはジュリアスにとても信頼されているけど、政に従事しようなんて気はないと思うけど?」
「もちろん、今は。ですが、数年先にはどうでしょうかな? 一応は、クゥアン王族の血を引くお方たちのみの元老院に、何の血の繋がりもないオスカー殿が入られるとなると、前例が崩れます。それでなくてもジュリアス様は、実力主義な所が多分にあられますからな」
「そうだねぇ。それでオスカーの存在が目障りか……、でもそんなの今日に始まったことじゃないだろう?」
 オリヴィエは、ラオの真意を探るように、またそう言った。

「実は……、オスカー殿が今、視察に出ていることを探っていた者がおりましてな。今回の視察については、それほど秘密裏に動いているわけではありませんから、元老院や城の文官たちに、尋ねられてもどうということはないんですが、南の領地に出向いたと聞くと、日程などの行動を詳しく尋ねた文官がおりましてな……。その文官は、ツ・クゥアン卿お付きの者だったらしく、ちと、気になりましてな ぁ」
「ツ・クゥアン卿か……始めて逢った時は、もっと嫌な感じかと思ったけれど、彼がクゥアンの王だったとしてもおかしくないほどに立派な人ではあるよね 。ジュリアスにも礼を尽くしてるし、仕事も武術も優れているようだし、威厳も品もあるし。ワタシには、彼が、娘との縁談を断られたなんて理由で、オスカーを排除しようなんて考える人物には思えないんだけどなぁ」
 オリヴィエは、ここ数ヶ月の間に感じた彼の様子を思い出しながら言った。
「そうですな……もしもジュリアス様が、金の髪を持ってお生まれになっていなければ、あるいは、ツ・クゥアン卿が王になられていたかもしれませんな……」
 ラオは呟くように言った。
“それは、どういうことだろう?”
 オリヴィエが尋ねようとした矢先、小雨だったものが大粒の雨に変わりだす。
「オスカー殿の事は、年寄りの冷や水……かも知れませんな。ただ少しばかりお心に留めておいてくだされば……と。さぁ、急いで帰りましょう。オリヴィエ様にお風邪をひかれたとあっては一大事ですからな」
「何言ってるんだい、ラオ爺こそ自分の神経痛の心配してなよ」
 オリヴィエとラオは、雨の中を城に向かい馬を走らせた。

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