第三章 3


  一週間後……。その朝、側仕えが激しく扉を叩く音でオリヴィエはたたき起こされた。
「何事? いつもの時間よりずいぶん早いじゃないか……まだ薄暗いのに」
 寝台の上で、全裸に近い状態で、ぼんやりと座り込んだオリヴィエに、側仕えの娘は、顔を赤くしながら言った。
「早くお召し物を着てくださいませっ。クゥアン軍が、ついに河の手前まで来ているそうです」
 王都の手前にある河を渡れば、城下まですぐである。
「今さらじたばたしたって……それにワタシは、城にいることしかできないんだし……」
 心では、クゥアン軍が目の先に迫っていることに焦りはある、けれど城から出ることも許されない身では、いつもと変わらない日常を送るしかない、オリヴィエは、わざと間の抜けた欠伸をする仕草をした。ふと、自分の素肌を見るまいと、顔を逸らしている側仕えが見えた。彼女は側仕えの中でも、しっかり者の頭の良い娘であった。その娘が赤くなって顔を逸らしている様に、オリヴィエは、感じるものがあった。父王から、 あてがわれている女たちとは違う、慎ましやかな可愛らしさ……。
“いつものなら、そんな事があっても、軽い笑いで流してしまうのだけれど……“ とオリヴィエは思う。
「ねぇ……ちょっとこっちにおいで」
 オリヴィエは、側仕えの娘を呼んだ。
「は? あ、あの……何でございましょう?」
 彼女は、顔を逸らしたまま言った。
「うん……上手く飾りボタンが留まらなくて」
「は、はい」
 娘は、慌ててオリヴィエの方に向き直った。まだ彼は何も身に纏ってはおらず、微笑んでいた。
「あ……あの、お召し物は……」
「これから着るとこ……だから、こっちにおいで」
 オリヴィエに悠然とそう言われて、困惑しながらも、彼女は一歩、二歩と寝台の側に歩み寄った。ぐいっ……とその手首を掴み、自分の方に引き倒したオリヴィエは、しっかりと娘の体を抱きしめた。
 この時はまだ、ちょっとした悪ふざけのつもりだった。娘が大声を出したり、反対にしなだれかかって来るようなら、冗談だと笑うつもりだった。だが、娘はただひたすら身を固くして俯いて、震えている。綺麗に纏め上げてある黒い艶やかな髪が乱れて、一筋だけ項に掛かっている様に、そそられたオリヴィエは、質素な木の髪留めを、外したい衝動に駆られる。
 パチン……、留め具が外れる音に、娘は、小さく小さく、「あ」と言った。長い髪が、さらさらと落ちる。それを掻き上げて露わにさせた耳に、オリヴィエは、そっと口づける。
「いや?」
 と、囁く。もう何も言えなくなっている娘に。もう一度、耳に触れた時、娘が、顔をあげた。
「し、叱られます……オリヴィエ様のお相手は、王様がお決めになった方しか……それに、噂では、ジャンリー様と近々……」
 やっとの思いでそう言った娘に、オリヴィエはさらに囁いた。
「それとこれとは別。他の者たちや、ジャンリーよりお前の方が、ずっとずっと可愛い。優しくて。手だって荒れているけれど、こんなに暖かい。ワタシは好き」
 オリヴィエにそう言われて、固くなっていた娘の力が抜けた。オリヴィエが、王の遣わせた相手を、気乗りしない様子で相手していることや、ジャンリーが、我が儘放題の姫であること、彼女との婚姻がオリヴィエの意思とは違う事は、後宮の側仕えならば、誰もが知っていたことだった。優しい側仕えの心の中の同情心につけ込むようだ……と思いながらも、オリヴィエは、握っていた娘の手を離し、娘の胸元を併せている飾り紐をゆっくりと解く。解きながら、オリヴィエは思う。この城に自分がいるのは何故か、と。恩義があったから、と。拾われて、育てて貰った恩義が。ずっと、大切にされて育てて貰ったと思っていた。王にとって初めての姫であるジャンリーが生まれた時、オリヴィエは自分が、どうしてこんなに大切にされているかを知った。

『金の髪を持つ者の血が入れば、その一族は繁栄する……』
 小さな頃から呪文のように大人たちが言っていた言葉の意味を、その時、オリヴィエは理解した。それでも、後宮の暮らしは、悪くなかった。一通りの学業も武術も身に付けさせて貰ったから、成人の儀を迎えた後は、騎士として兄のように王の側にいられるものだと思っていた。
“けれど……”
 王は、オリヴィエが剣を持つことを許さなかった。城から出ることすらも、良い顔をしなかった。ただ、ひたすら美しくある事、良い物を食べ、健康を保つ事……全ては、モンメイ王族に、金の髪 を持つ者の血筋を入れるために。そうすることだけを望まれ、その為には、オリヴィエの意思とは関係なく全て必要なものが用意された。過去 の出来事と、いままで心に貯めていたやるせない想いとが交錯する中で、オリヴィエは、自分の鬱憤の犠牲になろうとしている娘を見た。愛してはいない相手だったが、たまらなく愛おしい存在に思えた。
「怖い?」
 腕の中で震えている娘にオリヴィエは言った。小さく頷いた娘の首筋に唇を這わせる。娘の小さな吐息と甘やかな髪の香の中で、オリヴィエは、また違う事を考える。

“クゥアン軍が来る……モンメイが勝っても、負けても……ワタシはこの城を出よう、どさくさに紛れて何処かに逃げよう か? それとも強引に弓を取って戦いに参加してしまおうか……もしもそこで命を落とすようなことがあったとしたら、それはそれでいい終わり方かも知れない”

「ごめんね……」
 オリヴィエは呟いた。この後に及んで、相手の事だけを想うのではなく、自分のことばかり考えていることに、謝った。そして、心を入れ替えるために、娘の柔らかい胸に顔を埋めて、囁く。本心から。
「ごめんね……せめて今だけは、これ以上できないくらい優しい時をお前にあげるから……許してね」
 明るさを増していく部屋の中で、娘の体に指を滑らせる度に、何故だか癒されていく自分にオリヴィエは気づく。娘の素直な反応が、自分の体の悦びとなって伝わってくる。窓辺から差し込んだ光が、二人のいる寝台に届く。そして、朝の穏やかな日差しの中で……。 

 やがて……鳥たちの囀りが騒がしいほどになり、先ほどよりも、強い日差しが部屋に差し込んできた。
「オリヴィエ様……あの……」
「なぁに?」
 オリヴィエは、腕の中でぐったりとしている娘の黒い髪を撫でながら返事をした。
「もうそろそろお離し下さい………」
 少し涙ぐみながら娘が言う。
「そうだね……もういくらなんでも起きないと」
 オリヴィエが、手を緩めると娘は起きあがり、床に散らばった衣服を掻き集めた。時折、破瓜された痛みに前屈みになるものの、健気に素早くそれらを身に付けていく。
「しあわせだった……」
 と、オリヴィエはポツリと言った。
「え?」
「自分の意志でお前を抱いている時、とてもしあわせだった。ありがとう」
 娘の目から涙が溢れた。そして、精一杯の笑顔を見せて、オリヴィエに一礼すると部屋を去っていった。
 涙が滲む……、その霞んだ目で、オリヴィエは窓の外を見た。山が見える。高く険しい山脈が。自分の背中にいつもあるそれが。
 そして、オリヴィエの視線を、鳥が横切った。上へ上へと上がりながら飛んで行く。
“鳥になれればねぇ……”
 その時、鳥がひとつ……羽根を落とした。風に舞いながら、ゆっくりと落ちていく。まるで、オリヴィエの呟きを、軽くあしらうかのように。

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