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 その夜……。
 私とクラヴィスは食事の後、早々にお互いの寝室に引き上げた。眠ってしまうには早すぎる時間ではあったが、イザティスとグリナジィの落胆を目の当たりにしたことが私にも、そしてクラヴィスにも、後味の悪い結果となって、心身ともに疲労感があったのだ。
 湯浴みをした後、新しいシャツに着替えると気分はやや落ち着いた。寝室に引き上げる直前に、時を見計らって頼んでおいた例の美味なお茶が届き、私はティーカップを持ってテラスへと出た。
 私の寝室は、中庭に面しており白い鉄製のテーブルと椅子が置かれていた。そこに座ると、微かな虫の鳴き声がしているのに気づいた。優しい鳴き声に心が癒される。休暇の最後の夜を締めくくるのにはちょうど良かった。いろいろとありはしたが、聖地とは違う時間と空気の中にその身を置いてみるのは良い刺激になったと思う。クラヴィスのような者にとっては特にそうであろうし、私もまた。お茶に口を付けた。 やはり美味しいと思う。これはこの旅一番の収穫かも知れない。とても気持ちが落ち着く香りと味だった。

 その時、何か木陰を横切る影があった。長い髪が垣間見えたようで、クラヴィスか……と思ったが、彼の寝室は、廊下を挟んだ向かい側にあり、中庭には面していない。星灯りの中、その影の実体が露わになる。ふわりと黒髪を揺らしてやってきたのはイザティスだった。昼間の地味な堅苦しい衣装ではなく、緋色の緩やかなドレスを身に纏っている。 薄絹のストールを羽織っているが、鎖骨の下あたりまで大きく開いた女性らしいデザインのものだ。髪もいつものようにきつく結い上げておらず、腰の辺りまで届くそれを束ねることもなく下ろしたままだ。
「夜分に申し訳ありません……明日、お発ちになるのに、また視察でお見送りできそうにないので……」
 イザティスはスッと私の傍らに立ち、そう言った。
「文書の事は、なるべく早く処理します」
 私は彼女が、文書の念押しにやって来たのだと思っていた。
「ありがとうございます。ジュリアス様……あの……」
 イザティスは、くるり……と反転し、私に背を向けて立ち、そう言った。顔を見ずに話すなど彼女らしくない態度だったが、何か言い難い事なのかも知れないと思い、私も座したまま、「何だろうか?」と返事をした。
「この地に……デリーラに留まって戴くことは叶いませんか?」
 私が何か言おうとするのを彼女は遮って言葉を続ける。
「この星を改革するのに貴方のようなお方の力が必要です」
「私は……研究院の者で、政には不向きで……」
 突然の申し出に、我ながら驚きの余り歯切れの悪いことだった。
「けれど聖地や主星の制度にはお詳しいでしょう。そういう知識をお借りしたい……けれど、わたくしは……」
 彼女は意を決したように、振り向いて私をまっすぐに見た。美しい強い眼差しで……。
「お側にいて欲しいのです。わたくしを支えて……頂けたらどんなにか……」
 はにかむような仕草はほんの一瞬だった。すぐに彼女は俯いた顔を挙げた。私は悠長に座っている気分ではなくなり立ち上がった。結果として、すぐ目線の先に彼女の顔があることになってしまった。
「父と兄を失い、喪も明けぬうちに即位しこの五年、星の復興に努めてきました。幾分落ち着いたというものの、問題点は山積み。それなのに元老院は前を向こうとせず足下ばかり見ています。私が推し進めようとする改革がなされると、未来永劫、世襲制で安泰だと思っていた執政官の地位を失うことになると。その上、近々、私の夫となる人の選別試験を行うと言い出したのです。主星では配偶者は愛によって選ばれていました。家柄同士が見合う者同士の政略的なものはもちろんあるのでしょうけれど……。優れた血筋を残すためだけの婚姻……間違っているわ、こんな制度……。ラベルザ様もそんな事まではお望みになられなかったはず。ただ聖地の有り様に正しきを見出されて、そのようにあるべしと思われただけのはず! わたくし、疲れてしまいました……ごめんなさい……、何の関係もない方たちを巻き込んで、これ幸いと文書を押しつけた上に、まだこんなことを。でも……貴方のような人に側にいて、支えて貰いたいと……。政がお嫌なら、わたくしの事だけでも……支えて下さる方がいたなら……どんなにか……」
 悲しそうな顔でイザティスは笑った。その細い双肩にのし掛かった責務を思うとやりきれないものがあった。ラベルザや聖杯について聖地から文書を届けたところで、この星の改革は一朝一夕に為せるはずもないだろう。グリナジィという腹心の者がいるとは言え、まだ年若い彼は、彼女の手足となって奔走するのがやっとであろう。配偶者に選ばれる者は、容姿と気質の優れた者だろうが、女王という彼女の立場を理解し、彼女を支える存在となりうるのかどうかは……。彼女の気持ちが不憫だった。しかし、それでも、イザティスを抱きしめるつもりはなかった。彼女の意を汲むわけには行かない……私は……光の守護聖なのだから。
 しかし、次の瞬間、彼女は私の腕の中に飛び込んできた。と同時にストールが彼女の肩から滑り落ちる。悪意もなく飛び込んできた自分よりも小さなふわりと丸く暖かい女性の体を咄嗟に避けてしまえる者などいないだろう。
「湯浴みをなさった後なのね。何をお付けになったの? とても良い香りがするわ……これは聖地のものですか? それとも主星の?」
 イザティスは私の胸に顔を埋めたまま言った。私はまだ彼女を抱きしめてはいなかった。手は垂れ下がったままだ。
「いや……良くは知らない。幾つか薦められたものの中から好みのものを選んだので、どこのものかは……」
 その類への興味はさして無い私でも、自分が長年の使っているトワレの名前やそれがどう作られたものかは知っている。王立研究院の中にある調合施設で私用に作られたものだ。自分だけの為に調合された香りを持つのはあまり一般的な事ではないと聞くし、それ以上、会話が続かぬようにする意図もあって知らぬふりをしたのだった。イザティスは「そう……」と短く言った後も、まだ私の胸に額を付けたままでいる。
「香水は……付けることができなくなりました。前はコレクションしていたほどでだったのに。震災の時、棚から落ちて全部割れてしまった……。部屋中すごい匂いだったわ。その中で私は足を怪我して動けなくて助けが来るまでじっとしていたの。息が苦しくて……。それ以来、少しでも香水を付けようとすると気分が悪くなってしまうの……。他の人のものでもダメ なことも。……でも、ジュリアス様のものは大丈夫……不思議ね。もしかしたら聖地の特別な花でも、調合されているのかしら……」
 イザティスは目を閉じてそう言った。このように近くにいる彼女から何の香りも漂って来ないのはそういう訳か……。 そう思いつつ俯くと、彼女を上から見下ろすことになり、すぐそこにある白い胸の谷間が見えてしまった。首筋から柔らかなそこにと指を這わせたい衝動に駆られる。手が自然と動きそうになる。私は本能に抗い、彼女の背中を抱きしめることでそれを押し留まった。だが、これ以上は、ならぬ……。私はイザティスを抱きしめたまま、夜空を見上げた。何も言葉が出てこない……。
「どうしても、わたくしの側にはいてくださらない?」
 ややあって、腕の中の彼女が消え入りそうな声で尋ねる。
「イザティス。そなたが成さねばならぬことがあるように……今の私にもそれがある。ここに留まるわけにはいかぬのだ。どうあっても」
 彼女にではなく、まるで自身に言い聞かせているようだった。
「では……せめて……」
 トクントクンと……彼女の鼓動が伝わってくる。
「今宵一夜、お慰めいただくことはできませんか? 旅先で出逢った者同士が、行きずりの関係を愉しむように……」
 女性からは言い難い事をサラリと言う。そこには、はしたなさも、媚びたようなもの無い。彼女の持つ高潔さを垣間見るようだった。だが、イザティスはまた聡明でもあった。自分の美しさも充分に知っているだろう。一夜を共になどしてしまえば、彼女の魅力に抗えず、結局は留まることになるはず……と計算しているのかも知れなかった。
「ご安心なさって。初めて、というわけではありませんのよ。主星に留学していた時、恋人が出来ました。身分を隠していたのでお付き合いは進んだものの、デリーラに帰らねばならぬ身の上を告白すると、私たちの仲も終わりました。 今は本当にただ……誰かの腕が恋しいだけ、ただ一夜、何もかも忘れてしまいたい……」
 それは彼女の本音なのだろう。私は彼女を、慰めるように強く抱きしめた。そして、これ以上は、ならぬ……ともう一度、心の中に楔を打ち付けた。本当にこれが互いの名さえしらぬ行きずりの事なら、どんなに良かっただろう。直ぐさま、彼女の項に口づけてしまうのに。だが、私は知っている。彼女がデリーラの女王なのだと。私はイザティスから体を離し、 落ちていたストールを拾って彼女の肩に掛けた。
「優しい拒絶の仕方をご存じなのね……」
 イザティスは、私の手から自分の手を引き、一歩後ろに下がった。引き際を弁えた人だ……。
「誰かに抱きしめられたのは……五年ぶり。主星から戻った時に父上と兄上にね。男性の腕の中はとても良いものね。……ほんの少し元気を頂きました。ありがとう、ジュリアス様。ご無礼いたしました」
 微笑んだ彼女は少し膝を折り、頭を下げ、走り去っていった。その一連の仕草の、なんといじらしく、そして優美なことだろう。私は深呼吸し、椅子に体を投げ出して座った。理性が保てて良かったと、心から安堵した。
 

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