scene:9 【新しい処】
   
 目覚めた時、その部屋にアンジェリークは一人だった。
 ぼんやりとした頭で、寝台に座ったまま、昨日の事を思う。暖かい眼差しで、ここに連れてきてくれたディアも、全てを伝えてくれた女王も今はいない。そればかりか、昨夜、この部屋で感じた寂寥のようなものまでもが存在しないことにアンジェリークは驚く。やっと立ち上がると 、彼女は扉を開けた。静まりかえった宮殿の回廊の高い天窓から差し込む光に包まれ、眩しさに目を閉じた瞬間、はっきりとアンジェリークは自分の存在を自覚した。瞳を開け、前方を見ると、向こうからジュリアスとクラヴィス、そしてロザリアが歩いてくるのが見えた。

「宇宙の様子は、いかがでしたか?」
 ジュリアスは、アンジェリークに向かって一礼するとそう言った。ジュリアスの口調が明らかに昨日までと違っていることに違和感を覚えながらも、アンジェリークは答えた。

「新宇宙は全ての用意が調っていました。私は前女王と意識を共にし、旧宇宙からの移行が滞りなく済んだことを感じました」
 自然に口を突いて出る言葉に、一番驚いているのはアンジェリーク自身だった。 自分自身の意志からほんの少しずれたところで、別の誰か……前女王に背中を押されて答えさせられているような感覚がする。

「では、ロザリアと共に大陸へ最後の訪問を……すぐに遊星盤の用意を致します」
 ジュリアスの言葉にアンジェリークは、 「大陸への最後の訪問……ですか?」と、問うた。
「はい。神官に挨拶に行かなくてはならないそうですわ。その後の事は、ディア様から全てお聞きしています。お任せ下さい」
 先に段取りを聞かされていたロザリアが、そう言うとアンジェリークは、少し戸惑った表情を見せた。

「少し時間を下さい。新しい宇宙は、旧宇宙より迎え入れた多くの事象の為、安息を必要としています。闇のサクリアを即刻、お願いします」
 まず、これからしなければならないことが自然と言葉になる。

「御意」
 ジュリアスのやや後ろに控えていたクラヴィスが、静かにそう言った。

「新宇宙に闇のサクリアを送るのに立ち会いたいの。大陸訪問はその後にします」
 毅然とした声だった。どこからこんな声が出たのだろうと思いながらアンジェリークは言った。 スッ……と前女王と自分が完全に重なっていく感覚がした。そして、“もう大丈夫、しっかりね”と、あの軽やかな声が耳元で聞こえた気がしていた。

「では、陛下」
 ロザリアとジュリアスは一歩下がり、頭を垂れる。アンジェリークは、クラヴィスを従え、扉の向こうに引き返した。

◆◇◆

「静かになった……」
 部屋に入るなり、クラヴィスが呟いた。
「え?」
 そう返答して、アンジェリークは自分の出した普通の、今まで通りの声にホッとしながらクラヴィスを見た。
「ああ、静かだ、とても」
 クラヴィスは室内をぐるりと見渡した後、遙か彼方を見るような目をしてそう言った。
「私には、今、この部屋に入ったとたん、熱く大きな球体を抱え込んでいるような感覚がしました。なんだか……不思議……昨夜、陛下とご一緒した時は、なんて神秘的で、寂しい場所だろうと思ったのに、見た目は変わらないけれど……、今はとても、明るい感じ……そう、賑やかな感じさえしています」
「それがお前の持つ力なのだろう……新しい宇宙は、生きる力に満ちあふれた賑やかな処だ。静か……と言ったのは私の心の事だ。こんなに穏やかなのは、久しぶりだ」
 クラヴィスの方も、畏まった言葉使いではなく、普段通りの物言いに変わっている。
「じゃあ! 今夜は、朝までぐっすり眠れるかしら?」
「ああ、たぶん」
「よかった……。陛下は……陛下はどうかしら? せめてもう一目、お逢いしたかった……ディア様もいない……何処に行かれたのかしら……」
 アンジェリークの声は震えていた。
「心の声を聴くがいい、判るだろう。悪い予感など存在しないことが。あの人のことだ、何処か楽しげな場所に落ち着いて、笑いながら、美味しいものでも沢山食べていることだろう」
 クラヴィスは、さらに遠い目をして静かにそう言った。アンジェリークは、その言葉にハッとして、クラヴィスを見上げた。“あの人……”と言ったクラヴィスの言葉に、心が 、ざわめいた。自分の知らないところで、クラヴィスと前女王が繋がっているような気がしたのだ。だが、それは決して嫉妬に駆られるような嫌な感じではなかった。自分とクラヴィスは 同志だと、言った前女王の言葉がアンジェリークの心に浸みていた。
「ありがとう、いつも側にいてくれて……と、仰ってました。クラヴィス様に伝えて欲しい……と」
 アンジェリークがそう言うと、クラヴィスは、微笑んだ。まるで大切な荷物を無事、運び終えた後のように、ホッとしたように。
「陛下の事……お好きだったんですね……」
 つい口に出してしまった安直な問いかけに、アンジェリークは自分の幼さを自覚しながら、俯いた。
「ああ、とても」
 クラヴィスらしからぬ明るい声に、アンジェリークの指先が、じんと……震えていた。
「とても好きだった」
 微かな溜息まじりではあったが、ごく普通の青年のような明るい声だった。今まで聞いたことはないクラヴィスの声に、涙が溢れそうになり、アンジェリークは顔を見られまいと、クラヴィスの一歩前に出た。

“泣いてはだめ。今はいいの、きっと、いつか、私も……。今は、一緒にいられるのだもの、陛下とクラヴィス様のように、私もこの宇宙を分かち合うのだもの、これから……”
 アンジェリークは、自分を奮い立たせて、顔を上げた。そして、振り向く。
 クラヴィスは、まだ微笑んでいた。そして、彼の体から、紫紺の靄のようなものがゆっくりと現れるのが見えた。今までは、何かしら微かに感じることはあっても明確ではなかったサクリアの存在を、目の当たりにして、アンジェリークは、ただ黙ってそれを見ていた。
 自分の体の中にある球体と、サクリアが同調しているのを感じながら。

「闇のサクリアをありがとう。お疲れさまでした」
 女王らしく見えたかしら……と思いながら、つんと顔を上げてアンジェリークは言った。 クラヴィスは、恭しく頭を下げた。
「では、行きましょう」
 アンジェリークは、扉を押そうとする。
「あ、そうだわ」
 アンジェリークは、振り返ってクラヴィスに尋ねた。
「大陸への最後の訪問の事ですけれど」
「謁見の儀の前に、自分が育成した大陸に赴かねばならない。女王候補が育成した世界にピリオドを打ちに」
「え……?」
「これよりは育成は、為されない。後は、民自身が、その力を持って進歩を遂げていかねばならない。聖地は直接、関与することなく、あの大陸を見守り続けるだけの存在となる」
「それは、もう決して、エリューシオンに行ってはいけないってことですか?」
「いや。神官に、この大陸の発展を願う言葉を与え、今までのように、定期的な対話は出来ぬことを告げるのだ」
「じゃあ、あの……こっそりと視察するのは構わないんですね?」
「ああ、だが、当分はそんな時間は取れないだろうが、今まで通り遊星盤を使って訪問することは可能だ」
「よかった……エリューシオンにとっても大切な場所があるんです。他の場所は訪れる度に変わっていくけれど、そこは高い山の麓の森林地帯の奥だから、人里からも随分離れていて、野生種のカナリアが、たくさんいて。とても素敵な所なんです。 今まで金の曜日にはそこに行って、気持ちに整理をつけていたの。私の秘密の場所…………クラヴィス様にも見て貰いたい……」
 最後の方は小声になっていく。
「そんな大切な場所に、私を招待してくれるのか?」
 もう既にその場所は知っている……だが、それを隠してクラヴィスは言った。
「ええ、もちろん」
 頬を赤くして、アンジェリークは頷いた。そして、二人は、扉を開いた……。
 
 

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