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「はじめまして。僕、チャーリー・ウォンです。十歳です。よろしくお願いします」
 ペコリ……とザッハトルテに向かって下げた小さな頭はとてつもなく愛らしい。彼は毎日二時半までは学校がある。それまでの間は、二代目ウォンのブレーンとして働き、午後三時から五時までがチャーリーの相手をするということになったザッハトルテ。仕事と言っても、行うのは半ば家庭教師のようなことだった。宿題を見てやった後、政治、経済欄の新聞記事などの解説をしてやる。中にはかなり難しい記事もあったが、噛み砕いて説明するとチャーリーはすぐにそれを理解した。そした大人顔負けの意見を何気なく返してくるのだった。
 こうして一週間が過ぎ、いつものように宿題をやり終えた後、チャーリーはこう言った。
「ザッハトルテさん。僕、貴方のことを今日からリチャード兄ちゃんと呼んでもいいですか?」と。
「それでしたら、私は貴方のブレーンなのですから、リチャードとかザッハトルテとか呼び捨ててくださって結構ですよ」
 十歳の子どもが事実上の上司なのも、呼び捨てにされるのも当然、面白くはないが、一ヶ月間だけの事と思えばどうということもない……と思うザッハトルテである。
「目上の人を呼び捨てにしたらアカンでしょ」
「いいえ。会社では貴方の方が、地位が上なのですよ」
「ううん。それは成人してからのことやの。子どものうちは、大人に対してはちゃんと接しやなアカンねん」
 口も柄も悪いが、そういう所はキッチリと躾けている二代目ウォンに感心しつつ、ザッハトルテは頷いた。
「そやからザッハトルテさんとかリチャードさんとか呼ぶのが正しいんやけど、他の人に比べて若いからリチャード兄ちゃんって呼んでもいいかな……と思って。僕、兄弟とかいてへんし」
 他の秘書部の者たちは一番若いもので三十歳。チャーリーから見れば二十歳の自分は、
 お兄ちゃん的に存在に見えても仕方ないだろう……と思う。
「いいでしょう。そのようにお呼び下さい」
 確かにチャーリーさん、ザッハトルテさんと呼び合うよりも、見た目的には自然ではある。ザッハトルテがそう答えると、「うん。僕のことはチャーリーと言うてね」とチャーリーは嬉しそうに言った。
“思っていたよりも我が儘な所のない素直な良い子だ……”
とザッハトルテは思う。本当にこの頃のチャーリーは素直な良い子だったのである。今では妄想癖と言われてしまうことも、この年齢ならば『夢見がち』という美しい言葉で処理される。
  
「うわーー、トイレ、トイレ〜、もうアカン〜〜」
 その日、学校を終えて戻ってきたチャーリーは、けたたましくそう叫んでランドセルを乱暴に下ろすとパウダリールームに駆け込んだ。
「うるさいやっちゃなあ。こら、チャーリー、なんぼおしっこに行きたかっても、チ●チ●押さえて走ったらアカン。行儀悪いでっ」
“いや……大声で、おしっことかチ●チ●と叫ぶ貴方の方がどうか……と”
 ザッハトルテはこめかみをヒクつかせてチャーリーの投げ出したランドセルと、そこからこぼれ落ちた教科書やノートを拾い集め、勉強部屋変わりに使っている小会議室へと運んだ。先の荷物の中に、『作文集』とタイトル書かれたファイルがあり、何気なくザッハトルテはそれをパラパラと捲った。本やテレビ番組の感想、日々の出来事などを週に一度、作文として書かされているらしい。その中の一番上に綴じられた最新の作文にふと目が留まった。
  
 さい近、ぼくにお兄ちゃんができました。会社の人です。でもぼくは、リチャード兄ちゃんと呼ぶことにしました。今まで、会社では大人の人ばっかりだったから、ちょっとでも若い人が側に来てくれてうれしいです。リチャード兄ちゃんはいろいろとぼくに、おしえてくれています。 ぎん色のふちの目がねをかけています。頭もすごく良くて、せも高くてかっこいいです。ぼくは大きくなったらお父ちゃんみたくおなかが出てないで、リチャード兄ちゃんみたいにスラッとすてきになりたいです。
「…………」
 ザッハトルテはちょっと照れながらファィルを閉じた。悪い気はしない。こうしてチャーリーとザッハトルテの関係は極めて順調に続き、約束の一ヶ月があっという間に過ぎた。確かにチャーリーは見込みのある子どもだった。頭の回転が恐ろしく速い、瞬時にしてその場の空気を読む力は特出している。難航して雰囲気が悪くなった会議の場を、最初から決められていたかのようなタイミングで、ちょっとした発言や態度を示す。話し合いの中味はあまり理解できていないようなのだが……。だが、それによってその場の目に見えない流れが確実に変わる……ということをこの短い期間の中で、リチャードは三度体験していた。普段の勉強の中でも、判らないことは判らないとハッキリと言う。丸暗記の必要な科目は苦手としているが、勝手に 作詞作曲した歌にして覚えることでクリアしていた。
 子どもらしい悪戯や言い訳はしょっちゅうしているが、度を過ぎたことはしないし、何よりも会社の中という子どもにとっては異質な場所で、生活を余儀なくされている姿 は健気だった。
「家に帰ってもお母ちゃんもいてないし。お父ちゃんも忙しいから夜遅くにならへんと帰って来られへんから、もう僕寝てしまってるし。そやから僕、会社におるねん。そしたらお父ちゃんには毎日逢えるやろ。それにお仕事も覚えられるし」
 と言う姿には心打たれるものがあった。
 
 そしてついに返事をする日がやって来た。
「僕、良い子にしてた? リチャ兄ちゃん、僕の事、気に言ってくれた?」
 うるうるした目でザッハトルテを見上げる子どもに「明日から財政管理部に変わらせていただきます」とはなかなか切り出せない。そんな彼の心を読んだからのように二代目ウォンがゆっくりと口を開いた。
「ありがとう、ザッハトルテ君。ようチャーリーに付き合ってくれたな。君はやっぱり有能なエエ人や。息子のブレーンになってくれたら嬉しかったけど、君みたいな人を子どもに付けるのは勿体ないことや。ワシの我が儘やった。最初の約束通り、 元の部署で働いてくれ。ブレーンの事はチャーリーが成人した時にでもまた改めて考えたってくれたらエエ。ワシの望みは今となっては、たったひとつ。どうか末永くこのウォン・セントラルカンパニーで働いたってや」
 握手を求められて安堵し、それに答えようとしたザッハトルテの横でチャーリーが泣きだしそうな顔をした。
「リチャ兄ちゃん、違う部署に移るのん?」
「同じ社内や。いつでも逢えるで」
 珍しく優しい声で二代目ウォンはチャーリーに言う。
「そやかて余所の部署には、僕は勝手に行けへんやんか。いやや、いやや」
 タダをこねる様子が子どもらしく、かえって愛らしい。だが、こんなに別れを惜しまれる程自分はこの子と真摯に向き合ったのだろうか……とザッハトルテはふと思った。平日の数時間、付き合っただけのことなのに。そう思っていると、その答えをウォンが 言った。
「チャーリーのしつこい質問攻めに、総て答えられたのは君だけなんやそうや」
 確かにチャーリーの質問攻めは、しつこい上に、答えに窮するものが多かった。
「小難しい質問には、大抵ものは今はまだ知らんでエエとか、あとでとか、適当な作り事を言うて誤魔化すんやけどな。君だけは違ったそうなんや。チャーリーは、モノの本質を見抜く目ェをもっとる。子どもやからと舐められるのが一番いやらしいんや。例えば、空は何故、青いの?……と問われて、この世の悪を憂いだ守護聖様のお流しになった涙で青いと答えるのは容易いことやけどな……」
 想像力や文学的な資質に欠けるザッハトルテにとっては、そんな作り話をするよりも、
光の中の青い光は波長が短く、赤い光は波長が長くなっている。波長が短いほど散乱は強くなるため、青い光は赤い光よりずっと強く散乱されるから空は青いのだと答えた方が楽だった。そうするとチャーリーは、さらに、それならどうして夕方の空は赤い時もあるのだと尋ねてきたが、それにはそれで答えてやれば良かっただけのことだった。

「僕のブレーンでいてて。お願いや。リチャ兄ちゃん」
 今にも泣きそうになっているチャーリーにウォンがピシッとした声を飛ばす。
「チャーリー。会社のことはワシが決める。お前にはまだそんな権限はないんや。ザッハトルテ君が欲しかったら、しっかりと大人になって、自分の権限が出来た時、人事異動したらええ。わかったな、わかったら鼻水垂れて泣いてんと、ちゃんと御礼言うてお別れしぃや」
 そう言われたチャーリーはグズグスとしながらも、深々と頭を下げた。
「一ヶ月間、ご指導いただきありがとぅございました」と、しゃくり上げながら、そう言った。その様子と大人びた言葉とのギャップがあまりにも大きい。「ふぇ〜ん」と泣いて俯いた小さな少年に踵を返して出て行くことは、貧しくとも誠実であれと育てられたザッハトルテにはし難い事だった。主星大学に留学が決まって家を出て行く時、泣いて見送ってくれた末の弟の姿とも重なる。そして、「もし良ければ……この先もこの部署で私を働かせて下さい……」と言った時、この少年がどんなに明るい笑顔を見せるかと思うとよけいに……。
 

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