木曜日の午後。窓から差し込む温かな日差しに、チャーリーは、つい、ウトウトしそうになっている。
「ふぁーーーっ、眠ぅぅ〜。ジュリアス様、仕事中に眠くなることってないんですか?」
ジュリアスはいつものように凜とした姿で机にモニター上の数値をチェックしている。
「いや……ある。今も、もう少しで瞼を閉じてしまいそうだった」
ジュリアスは目元を押さえるようにしてそう言った。
「ぜんぜんそんな風に見えへん。そやけどホンマ、春の日差しはポカポカしてて気持ちエエもんなあ〜。ふー、眠気覚ましにコーヒーでも飲みましょか?」
「そうだな」
ジュリアスが立ち上がろうとするのを、チャーリーが制する。
「あ、もちろん俺が淹れますよー、いつも言うてますやんかー」
「チャーリー、どこの世界にボスにコーヒーを淹れてもらう秘書がいるのだ? いつもながら心苦しいのだが……」
「ヨソにはいてへんかも知れんけど、ココにはいてるんです〜」
チャーリーは、部屋の片隅にさりげなく設えてある飲み物のブースに行く。何種類かの冷やしたソフトドリンクは常時すぐに飲めるようにしてある。暖かいコーヒーだけは淹れたてやないと美味しくないというチャーリーの断固とした主張で作り置きはされていない。その代わり自分で淹れるから皆の手は煩わせへんで……とスタッフたちには言ってあるのだ。
「コレコレ、この香りや〜。えーっと、ちょい濃いめにしときますね〜」
チャーリーは、コーヒーの入った密封容器を開け、ふわん……と漂う良い香りに満足しながらそう言った。と、その時、社長室の扉が開き、ザッハトルテが入ってきた。
「おや、グッドタイミングだったようですね。チャーリー、ありがとう」
間髪入れずザッハトルテは言い、当然の如く、空いたソファに座り込む。
「……ほら、ジュリアス様、いてるでしょ、ボスにコーヒー淹れさす部下! なんでお前にまで淹れたらなアカンねん〜、自分トコで飲んで来い〜」
と言いつつもチャーリーは3つ目のカップを取り出して温めている。
「ですが、貴方の淹れたコーヒーは本当に美味しいのです。ここのと同じ豆を私の執務室にも置いてありますが、何故だかまったく味が違うのです」
「そ、そうかあ? いや、まあ、ザッハのとこはコーヒーメーカーで淹れてるからな。俺はちゃんと自力でやってる。
なんちゅーても一番大事なんは愛、愛や! 美味しいコーヒーを好きな人に飲んでもらお、一緒に飲もう……と思う心! あ、勘違いせんといてや、お前の事とちゃうで〜。それから、このケトルからお湯を注ぐタイミングなんかが、まあ
言うたら、職人技? カフェ・ド・ウォン聖地店で、守護聖様をも唸らせたこの味!」
まんざらでもない様子で三人分のコーヒーをそそくさと用意するウォン財閥総帥。ザッハトルテはチャーリーに背を向けた姿勢のまま、ジュリアスにウィンクをひとつ送る。ジュリアスは小さく苦笑した。
「リチャード、例の事、判った?」
コーヒーを淹れながらチャーリーが聞く。
「ええ。フィリップ・フィナンシェの件ですね。一応、書類にまとめてきたんですが……口頭でご報告しましょうか?」
「うん、頼む」
「結論から言いますと、まったくもって清廉潔白なお方のようですね。公表されているプロフィールからお話します。第四十一代フィナンシェ家当主。年齢二十六歳」
「へえ……俺と同い年なんや。しっかりしてはる雰囲気やったし、背もジュリアス様と同じくらいやし、もうちょい年上かと思ったけど……」
「続けますよ……聖ビクリニィ学院大学を二十歳で主席卒業後、薬学の研究のため、惑星アントルメ国立大学院に留学し、三年後に帰国。その後、フィナンシェ製薬に副社長として経営参加し、先代の死後、社長職に就いています。幼少からとても優秀な方で、アントルメ大学院の留学も家柄などに関係なく、本当に特待生として招かれてのことだったそうです。ご本人は、経営者ではなく研究者としてフィナンシェ製薬入りを望まれたそうですが、そうもいかず副社長として入社されました。それだけに物の見方が、先代より現場寄りで、社員たちには絶大な支持を得ていらっしゃる様子です。先代の頃、薬品だけではなく、食品、化粧品、不動産など手広く経営が展開されましたが、彼が社長になってから経営規模は小さくなっています。にも関わらず業績は右肩上がりです。食品、化粧品の分野は医薬品と通じるところもあるし、今後も力を入れるけれど、それ以外のものについては売却し、良薬良品を生み出すことに専念するという経営スタンスが大いに評価されています」
「それで個人的には?」
ドリンクブースから、ひょいと顔を覗かせてチャーリーが問うた。
「悪い噂はもちろん、浮ついたものも一切ありませんね。趣味は、乗馬とチェス。双方とも学生チャンピオンになったこともある腕前です」
「ほう……」
と思わずジュリアスの声が出た。
“むむむむ、乗馬とチェス……ってジュリアス様の趣味と一緒やないか! しかも学生チャンピオン……。俺、馬は乗ったこともないし、チェスはジュリアス様にハンデもろても勝てへんし……”
ドリップする手がワナワナと震えるチャーリーである。
「それと、シフォン・ファームは、フィナンシェ製薬の一環としてではなく、まったく彼個人名義のものです。趣味が高じて……といったところですかね。そちらも至って良心的な経営ぶりです」
「問題はまったくない……ってことかー」
チャーリーは三人分のコーヒーをトレイに乗せて運んできた。まずジュリアスに、そして自分の座る位置にカップを置いた後、勿体ぶってザッハトルテに差し出した。
「ありがとうございます。ああ、良い香りだ。素人の私や器具ではこの繊細な香りは引き出せません。実に芸術的な味です、チャーリー」
「お前にそこまで言われると嘘臭いわ……」
「いや、本当に美味しい。そなたの心使いが染み入るような味だ」
「いやーー、ジュリアス様までそんな〜、バシバシバシッ」
トレイでソファをどつきながら喜ぶチャーリーに、ザッハトルテは、「不祥事でも起こして会長職を解任させられても充分、バリスタとして生きていけますね」と例によってキツイ一言をかました。
「シャレになってません……。そんなことよりもやな……」
とチャーリーは、一番聞きたい部分を聞くべく、ザッハトルテの横に座り直した。
「交友関係とか……異性……同性関係の、ソッチの噂は?」
些か小声になりつつチャーリーは聞く。
「交友関係は、学生時代の貴族層の友人よりも、研究関係で知り合った学者、知識人の方が懇意なようですね。いわゆる性的な面での事となると、独身時代にも悪い噂は無かったようですし、結婚後も……」
「結婚……してはったんか? えーっとそれは女性と?」
恐る恐るチャーリーは尋ねる。
「ええ。さる貴族のご令嬢と……」とザッハトルテが言ったとたん、チャーリーの懸念は晴れてゆく。
“なんや〜、妻帯者さんか〜、ちゃーんと女性のパートナーがいてるねんやったら、心配することもあらへんかったやん〜”
「ですが……」
「むっ、何や?」
「その女性とは、彼が副社長就任と同時に結婚、社長就任と同時に離婚しています」
「なんでまた……?」
「詳しい事情までは判りませんが、恐らく、先代の命により政略的な結婚だったのでは?」
「ふうん……それで先代が亡くなった後、もうええやろ……と離婚したんかな? そしたら今は独身ってことやな。今現在はどうなんやろ?」
「特に何も無いようですよ。ウィークデーは、フィナンシェ製薬の社長としての仕事をこなし、週末はシフォン・ファームに。浮ついた噂はありませんね。ただ彼ほどの人物ですから、一方的におもてになっているようですが……」
「叩けば埃の出る体……とは無縁の人なんやなあ」
「そうですね。私は、ヒヒン軟膏のことでフィナンシェ製薬には悪い印象しかありませんでしたが、彼に対しては認識を改めます」
「それやったらぜんぜんOKやな。ジュリアス様、シフォン・ファーム訪問、楽しみですね」
心のどこかでフィリップ・フィナンシェに対してライバル心を燻らせつつも、チャーリーはそう言った。ジュリアスが笑顔で頷く。
「ジュリアス、馬を買うのですか?」
「出来ればそうしたいのですが、とりあえずは乗馬クラブ会員にと思っています。館からエアカーで一時間ほど……。週末に通える距離ですから」
そう言うジュリアスは本当に嬉しそうだった。
“聖地からこっちに来はって、ぜんぜん馬に乗ってはらへんもんなあ……。それにフィリップ・フィナンシェ……趣味もジュリアス様と合うし、彼さえジュリアス様にヨコシマな好意を抱かんかったら良え友達になれそうな人やし。ジュリアス様、まだ社外に知り合いもいてへんし……これは良かったのかも知れんなあ……。愛する人の幸せを願う俺! 清い、清いでー。まさに純愛〜”
しかし、フィリップ・フィナンシェの存在が今後、ジュリアスとチャーリーに深く関わって来ようことを、今はまだ知る由もないチャーリーであった……。
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