そして一月後の日曜日、主星北東部にあるミルフィーユ競馬場では、第801回春の主星杯が行われようとしていた。
「昨夜は会議が延びて帰宅が深夜、その上、今日は渋滞に巻き込まれるやなんて。せっかくジュリアス様は初めての競馬場やのに、慌ただしいなあ。ホンマは前日から近くのホテルでも泊まりたかったのに〜 “当然部屋はスィート! 露天ジャグジー 、星空の下で、あんな事やこんな事したかったのに………”
 競馬場のゲートから馬主や来賓用の専用通路を歩きながら、チャーリーが、叶えられなかった欲望に不満を抱きつつブツブツと言う。
「そうだな。私も、週末はゆっくりと過ごしたかったが……“事前にもう少し何か情報を得て、レースの知識を入れたかった……ここのところずっと多忙であったから仕方がないが……”
 ジュリアスの方も前日から盛り上がれなかったことを残念に思う。実際、二人はヒヒンジュリアスのオッズは愚か、他の出場馬も知らないまま今日を迎えていた。

「あ、ジュリアス様、こっちですよ」
 二手に分かれた所で逆方向に行こうとするジュリアスをチャーリーは腕を持って止めた。
「ん? メインスタンドの上にあるという個別ブースから観るのではなかったのか?」
「それは後で。先にパドックに行んとアカンらしいです確か」
 些か頼りなさげなのは、チャーリー自身も競馬にあまり興味がないからだった。父親に連れられて、子どもの頃に何度か来たことがある……という程度だった。
 レースに出走する馬たちが厩務員にひかれてゆっくりと歩いて馬体の状態など見せる場がパドックである。間近で馬を観られるので当然混雑するのだが、チャーリーたち馬主は特権で、スタンド側からでなくその内側から観ることができる。他の馬主や関係者も大勢集まっており、父親が「ちょっとした社交界やから顔を売るのにええでー」と言っていたのをチャーリーは思い出 していた。

 二人がパドックに出ると、丁度、今から出場馬が入場する所で、まず先だって誘導馬が、円形に作られた小径を歩いている所だった。その小径の脇に作られた小さな堀の外にいる一般客たちはラフな出で立ちの者が多かったが、内側にいる者たちは報道関係者以外、皆、馬主やファームのオーナーなどで、きっちりと した正装である。  
 チャーリーとジュリアスもフロックコートとダービーハット姿で、居合わせた婦人たちと、一部の男性の心を瞬時にして捉えたのだった。
「あの方たち……どなた?」
「素敵……お一人は見たことがあるわ……確か、ウォン様じゃなくて?!」
 どこかの令嬢風の女性の会話が途切れ途切れに聞こえてくる。名前が呼ばれた気がしたチャーリーは振り返り、“はて、どこのお嬢さんやったかなー、どっかのパーティで会ったかなあ……まあ、ええわ、挨拶しとこ” と思い、帽子の縁をほんの少し持ち上げて微笑んだ。
 チャーリー・ウォン、黙っていればかなり美男子のうちに分類される容姿を持つ。その上、高収入高学歴。ここ数年、某雑誌の男女ともに結婚したい独身男性のトップ3から外れたことはない。みるみる女性の頬が染まり「きゃっ」と可愛い声が上がった。

「アカン〜、また視線で女性を殺してしもたがなー。もー、チャーリーってば、視線の導火線に火を付けるの上手ー……って、コレ、オスカー様の専売特許やったー。ジュリアス様はダメですよ、愛想振りまいたら洒落になりませんからね」
 と傍らのジュリアスに釘を刺す。
「はは、私はそなたのように有名人ではないからな。挨拶するような知り合いはまだいない」
「そうですけども、こういう場所は社交界みたいなものやし、割とお盛んなんですよ」
「お盛ん?」
「声を掛けたり、掛けられたり……こんなお祭り気分の時だけのアバンチュールというか……」
「私とは無縁なことだな」
 しかし、ジュリアスが言ったしりから、女優のような風貌のゴージャス美女が、ジュリアスを熱い目で見ながら横を通り過ぎようとする。
「あん……」
 と柔らかな甘い声がすれ違い様に発せられた。人混みに押されたせいで彼女がよろめいたようだった。すぐ近くにいたジュリアスが支えとなる。
「大丈夫ですか? どこかお怪我でも?」
 自然の成り行きでジュリアスはそう声をかけた。
 エエ声、エエ声、エエ声〜、そやけどー危険危険危険〜

……とチャーリーの心の中で大合唱が聞こえる。案の定、美女はうっとりとした顔で、「ありがとう」と答え、次の言葉を発しそうになる。
“ここは人が多すぎますわね、あちらのカフェテラスで、レースが始まるまで何か飲みませんこと? ……とかなんとか言う気や! おのれ女! ちょっとばかしナイスバディやと思て、ジュリアス様に言い寄るなんて 絶対に許さへんでっ”
 チャーリーの危機回避能力がフル回転し、ジュリアスと女性の間に、強引に割り込む。話すタイミングがずれた彼女は、ムッとした顔をしたまま 、悔しそうに通り過ぎて言った。
「ほらー、もうジュリアス様、あんな手にまんまと引っ掛かるんやから。わざとよろけたんですよ!」
「そうだったのか。けれど、美しい女性だったな。そのように画策するような感じではなく気品もあったのだが」
「美しさと気品と、ナンパのスキルはまた別モノですよ! オスカー様かて、男前やし、さすが守護聖様で気品もおありやけど、あんなでしょ!」
 こういうシーンでは何かとネタにされるオスカーを気の毒に思いつつも、ジュリアスは「確かに……」と呟いてしまう。
「俺は絶対、そんな手管には落ちへんけど……なんで? ってそれはジュリアス様一途やし! けど、ジュリアス様は 、まだ世間の垢にまみれたはれへんし、学生時代に合コンやらナンパやらの経験もないし、無垢なトコがあるんやから、美女の毒牙にかかって、ふと気がつけばそして朝! 隣に寝てるのは誰? みたいなことになってしまうカモですやん!」
 チャーリーは力説する。
「美女の誘いなら別に毒牙というわけでは……」
「それそれそれ! ホンマにも〜。育ちが良すぎて来る者は拒まず……みたいなトコがあるんやから……って、ちょっと待ち! もしかして俺の事も、俺の好きや〜好きや〜なシツコイアピールに流されただけ!? ええーーーっ」
 顔に縦線が入っていくチャーリーを正気に返らせたのは、ふいに沸き起こった周囲のどよめきだった。出場馬たちがいよいよパドックに姿を見せる、そのファンファーレが高らかに鳴り響 きだした……。
 

■NEXT■

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