「そなた……『鍵』は使っているのか?」
 古塔の中、誰も他にはいないのに私の声は小さくなる。クラヴィスはまだ私に背を向けたまま。そして何も答えない。
「自然な事だ……と、医師も言っていた。苦しいのなら使えばよいものを……」
「では……お前は使ったことがあるのか?」
 クラヴィスはやっと振り向き、また私を睨んで言った。
「…………ある。どのようなものか知る必要があると思った。それが自然の摂理ならば」
「ふん……興味が先に立ったか……理性的な事だ。私とは違って」
 クラヴィスの場合は、十一月の……強い衝動に駆られての事だったのだろう。

「お前は……なんの躊躇いもなく『鍵』を使えているのか?」
 クラヴィスの問いの意味が理解できた。その行為に虚しさは覚えないのか……とそういう意味であろう。

「心とは関係なく、体が反応するのに違和感があった。何かが違うと思った。だから……『鍵』は今は使ってはいない。だが、そなたのように……コントロールし難い時期があるのなら、それはまた別のことだ。私なら……そうなれば無駄に苦しむより『鍵』を使う」
「仕方のないことだ……と言うのだな?」
「ああ」

 私がそう言うと、クラヴィスはまた俯いた。そして……「心が求めているものは違うのに……」と消えるような声で呟いた後、「出て行ってくれ……」と弱々しく私に言った。だが、私は立ち去ることが出来ず、少しの間立ち尽くし、クラヴィスを見下ろしていた。先ほど、私の肩を強く押した時のクラヴィスの顔が目に浮かんだ。

「そなたは……私でも、そなたの対象となり得るのか……?」
 私はふいにそう呟いた。思考より先にそう言葉が出た。窓の外ではまた雨がより強く降り始め、辺りはさらに暗くなっていた。陰鬱な空気が私の言葉でさらに重くなった。

 クラヴィスは答えなかった。長椅子に座ったまま、少しも動かず俯いてる。まるで石になったような彼の隣に私は座った。その背中に触れる。僅かにクラヴィスが震えた。娼館での行為に虚しさを覚え通うことのできないクラヴィスが、私を押し倒したのは? 私は再びクラヴィスに問うた。

「私でもそなたを楽にしてやれるのか……?」
 否定しないことがクラヴィスの答であると私は確信した。背中に触れた手を肩に回してクラヴィスをゆっくりと押し倒す。クラヴィスは黙ったまま抵抗しない。髪に、頬に、首筋に……私の指はクラヴィスをなぞる。そうしながら、私は何故かプロキオンの事を思いだしていた。クラヴィスは無意識のうちに闇のサクリアを滲ませていたのかも知れない。プロキオンの急死への持って行き場のない悲しみ と怒りが、クラヴィスに触れれば癒えるような気がしていた。横たわったまま動かず何も言わないクラヴィスの姿が、プロキオンと重なった。そのたてがみを、首筋を、いくら撫でても嘶くこともなく、暖まることもないプロキオンの体……。だが、クラヴィスは生きている。私の指先に伝わってくる鼓動。冷えていたクラヴィスの体が温かくなっていくのを感じながら、私は彼に触れ続けた……彼が楽になれるまで。
 クラヴィスが声を……微かな声を漏らした。そしてその後、「ジュリアス……」と私の名を呼んだ。
「一人にしてくれ……」
 掠れた声でクラヴィスが言った。その声には先のような棘が無かった。むしろどこか穏やかさがあった。私は黙ってその場を立ち去り、この日の事は無かったことのようにお互い触れずに日々を過ごした。

 翌年の十一月。私の執務室を訪れたクラヴィスは、まるで何かの仕事を依頼するかのように一言、「また……頼めるか」と言った。唐突なその言葉がに何の事を意味するのか、すぐに判ったのは私の心の中にあの日の出来事がずっとあったからなの だろうか……。夜の帳がすっかり下りた頃、私は約束の古塔へと向かった。燭台の小さな灯りの中、クラヴィスが総ての用意が調えて待っていた。
「もし私が……お前の対象となり得るのなら……」
 一年前に私が言った言葉と同じ事をクラヴィスは言い出した。
「これを使うといい」
 差し出された小さな陶器の容れ物には香油が入っていた。指先だけでなく、総てを受け入れようとするクラヴィスに、動揺を隠してあえて「わかった……」と素っ気なく答えた。クラヴィスが対象となり得るのは判っていた。昨年、あの時に、私の中にも 微かに昂ぶるものがあったのだ……。そして、私は何かの儀式のようにクラヴィスと…………。二人とも押し黙ったまま、ほんの僅かな吐息だけを漏らして最後の時を迎えた。

 翌年もその次の年も私クラヴィスは、十一月になるとただ一度、私を求めた。古塔の中で……。
 

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