ややあって、二時の鐘が鳴った。執務官は、教皇の執務室の扉を叩いたが、返事はない。居眠りでもされているのかも知れないと、そっと扉を開けたが、そこには誰もいない。ただ、カーテンが風にそよいでいるだけである。
「ああっ、何ということだ、窓から出られたのか?!」
初老の執務官は、あたふたと執務室棟から裏庭に出る。
「庁より外には出ておられぬと思うが……やれやれ」
裏庭の東屋にも教皇の姿がないと判ると執務官は、旧聖堂へと向かった。
「お気に入りの場所であったからな。あの薄暗さが、昼寝に丁度良いらしい……」
裏庭のずっと外れ、果樹園に隣接する場所に、質素な石材と材木で造った古い祠……旧聖堂がある。執務官たちには無縁のその辺りは、庁内で働く職人や庭師の仕事場があり、こじんまとした田舎の村のような風情が心地よい一角だった。
「教皇様が気に入られるのも判るが、窓から抜け出られるなど戯れが過ぎますぞ……」
ブツブツと文句を言いながら執務官は、旧聖堂を覗き込む。だが、そこにもクラヴィスの姿はない。
「いらっしゃらぬ……。さぁて、困った。どこに行かれたのか……」
執務官は、果樹園の方かもしれないと、そちらに向かおうとした。すると向こうから花籠を抱えた少年がやって来るのが見えた。
「あれは確か庭師のサクルか……おおいーー、お前」
執務官は、サクルを呼び、手招きした。
「はーい、何でしょうか?」
「お前、この辺りで教皇様をお見かけしなかったか? 果樹園の方はどうであろう?」
「クラヴィス様はいらしてませんよ」
と答えたサクルに執務官は、険しい顔をする。
「これ! 御名前でお呼びするでない。恐れ多い。鉱夫だったお前たち親子は、教皇様のご慈悲あればこそ、教皇庁内で職を得られたのだぞ? 気軽に尊い御名を口にするでないわ。まったく……」
「すみません。気を付けます。でも、本当に教皇様は、果樹園にはいらしてませんよ。僕、たった今、皇邸の方へお花をお届けにあがったのですが、私室にいらしたような気がしますけれど……チラッとお見かけしたの教皇様だったような気が
しましたけど、う〜ん、どうだったかなあ……」
小首を傾げてサクルが曖昧に答えると、執務官は溜息をついた。
「なんと私室に戻られておったとは。やれやれ、まったく反対方向ではないか」
「はぁ……、お疲れ様です」
サクルに気の毒そうにそう言われ、執務官はガックリと肩を落とし、皇邸の方へと引き返して行った。
「お気の毒に……」
サクルは、執務官の後ろ姿に呟くと、果樹園に続く石塀にそって、旧聖堂の方へと入って行った。薄暗いその聖堂を抜け、建物の裏へと出る。
やや小高くなったその裏庭に一本のインファの木が立っている。春の終わりから初夏にかけて咲く白い五弁花が、その枝先までいっぱいにつけて咲き乱れている。今でこそ、そうなってはいたが、数年前までは幹や根
に痛んだ箇所が何ヶ所もあり、近い将来朽ち果ててしまうであろう老木だったのだ。教皇庁の外れの裏庭……という位置にあるため、樹齢も高い大木であるにも拘わらず珍重もされずに忘れ去られたままになっていたのだった。クラヴィスは
、旧聖堂の裏にあるこの木を、ずっとなんとか救う事は出来ないかとまだ少年の頃から、気に掛けていたのだったが、
庁内の庭師は、正門から続く前庭、大聖堂の回りの整備に追われていて、とてもここまで手は回らぬ様子だった。それを、サクルが庭師見習いとして働くことになった時、良い機会だからと任せてみたのだった。身軽な彼は、大木に登り、そこかしこに無駄に伸びていた枝を切り落とし、丁寧に害虫を駆除した。そんな風に
こまめに手を入れて三年目の春あたりから、木は息を吹き返し、枝ぶりはまだ不揃いなものの、生き生きとした新芽をたくさん付かせたのだった。
そのインファの木の下に、足を投げ出し横たわっているクラヴィスがいる。
「クラヴィス様、執務官さん、行っちゃいましたよ」
「すまぬな」
「なんだかお可愛そうですよ。フーフー言いながら戻って行かれましたよ。それと、僕、これからスイズ城に、新しい苗をお分けする為に出掛けるんですが、スモーキーに何かご用があれば伝えますよ」
そう聞いたクラヴィスは半身を起こす。
「馬車で行くのか?」
「そんなわけないでしょう、台車に苗を乗せて引いて行くんですよ。もうっ。馬車だったら忍び込んで乗って行こうとしたでしょ?」
「ふん」
クラヴィスはつまらなそうな顔をする。
「じゃ、行って来ますね。少し風が出て来ましたし、早く執務室に戻ってくださいね」
「ああ、もう少ししたら」
サクルが行ってしまうと、クラヴィスは再び、体を横たえた。青い空はさっきまでと変わらないが、雲が流れていくのが早くなっている。それと比例するようにさわさわと軽やかにインファの枝が揺れ、白い花びらが風に乗って散っていく。
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