それらを見上げているうちに、クラヴィスは疲れが取れ、いつになく穏やかな心になっていった。と、同時に、瞼を開けているのが辛くなってくる。そろそろ執務室に戻らねば……と思い、眠気に抗えば抗うほどに、クラヴィスは、自分が木の根元と同化するような錯覚に陥ってゆく。
“もう少し休んでいくがよいぞ。昨晩も、きつう魘されておったからのう……”
インファの木が、自分を労ってくれている……クラヴィスは、眠気の中でそんな気がしていた。そして、夢と現の狭間で彼は、大山脈の麓にいる自分を見ていた。十五歳の少年の自分
を……。
“……あの時からもう十年ほどの歳月が流れたのか……あの時、聞こえてきた声の主は、今、どうしているのだろう?”
クラヴィスの耳に、あの時のきっぱりとした物言いの声が聞こえる。実際に聞こえたわけではない、心の中に直接入ってきた、あの声……。
山脈の大きさ、荒野の広さ、そこを流れる風は、内陸部のそれと違い、砂混じりで乾いている。何もかもが荒削りな自然の中で、あまりにも微弱だった十五歳の己の姿に笑いながら、
クラヴィスは、眠りへと落ちていく。
これは夢なのだな……と思いながら、クラヴィスは、大山脈の上の空を見上げる……ふと、次の瞬間、雲の合間から出て来た太陽に目が眩んだ。閉じた瞳をゆっくりと開けた時、そこには海があり、体が浮いていた。クラヴィスは、自分が、鳥になっているのだと思う。向こうから帆船が来る。その帆は薄汚れて破れかけている。
“随分、みすぼらしい船だな、せっかく美しい海を広々と飛んでいたものを……”
と、鳥になったクラヴィスは思う。その船首には誰か立っている。
“ボロ船の船長か……ふん、ちょっと、突いてやろうか?”
空を飛ぶ浮遊感に心まで浮き立っているクラヴィスは、悪戯心を起こす。クラヴィスは、風に逆らい、帆船へと近づく。船首に立っているのはまだ若い男のようだ。
“ほぉ……”
男の衣服は、帆布と同じく色褪せて汚れている。だが、そうなる前は大層、手の込んだ刺繍が入った上質のものだと判る。何より、金色の髪をなびかせて立つ様は、何かの信念に満ちあふれた美しいものであった。
「鳥よ」
とその者が言った。クラヴィスはハッとする。あの大山脈の向こうから心に聞こえた声と似ている、と。
「お前は知っているか? この海原の向こうに何があるのか?」
“私の住む処があるのだ”
クラヴィスはそう言うが、その声はキィキィと甲高く響く鳥の声で、男には伝わらない。
「お前は海鳥ではないな? では、お前の住む陸地がきっとあるのだろう。良い兆しを見た、礼を言う」
男は、クラヴィスに向かって微笑みかけた。その男と、クラヴィスの目が合う。
“間違いない、あの声の主はお前だ” クラヴィスは、ハッとして瞳を開けた。ぼんやりとしながら今見た夢を、余すところ無く、思い出そうとした。だが、出て来た男の顔は思い出せない。
ただその瞳だけが心に残っている。海の色とも空の色とも違う青だった。何かに形容するのが憚られるような強い意志の隠った目だったと思う。
クラヴィスはゆっくりと立ち上がった。彼の法衣に付いていた花びらが、ふわりと落ちる。木の枝からも、インファの花びらが風に誘われて散っていく。季節が移ろいゆくのだと覚悟しているように。
クラヴィスには予感がしていた。インファの花が散り去って、その枝に若葉が萌ゆる初夏が過ぎ、強い日差しに海の面が映える頃、大海原の彼方から、あの者がやって来る予感が……。
終
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