そうして悶々としながら一時間近くかけて歩き続けているうちに、ついにルヴァは、ベリル公爵の館に着いた。門番さえいない開け放たれた鉄門が、この地方ののどかさを語っている。前庭がたっぷりととってあり、まるで林のような鬱蒼とした木々の向こうに館の屋根が見えている。ルヴァは館の敷地内へと入り、手入れされた道沿いに進んだ。
すこし行くと、石造りの段差の所に座り込んでいる男がいる。身なりからして武官というよりは、庭師のようでもあるが、門番が持つ長槍を脇に置いていることから一応は、ここを通る者を見張っているのかも知れないとルヴァは思った。彼はルヴァがとぼとぼとやって来たのを見ると、不審な顔をし立ち上がった。そして、ルヴァをどこかの文官のようなだと見定めた彼は、特に敬意を払うわけでもなく「どちら様ですか?」と、やや横柄に尋ねた。
「はい。フローライトさんにお取り次ぎ願えますか? あの……ルヴァが来たと伝えて貰えれば判ると思います」
「ちょっとここでそのままお待ち願えますかね」
男はそう言うと、長槍を抱えて、館の方に走って行った。ほんのしばらくし、男は戻ってきた。
「どうぞ。このままお入り下さい……との事です」
男に言われるままにルヴァが進むと、古めかしいが威厳のある館の扉の前に、今度は上品な初老の執事が立っていた。彼はルヴァに一礼すると、「こちらへどうぞ」とだけ告げて、扉の向こうに彼を案内した。ルダ音楽院やダダス大学の図書館の雰囲気に似ていて落ち着いた良い館だ……とルヴァは思う。執事は長い廊下の突き当たり、一際大きな扉を開き、「お客人をお連れ致しました」と言い、すぐにその場から去って行った。フローライトがいると思うとルヴァの鼓動が早くなる、顔を上げることが出来ずに室内に入ったルヴァは、床を見つめたまま、「失礼致します……」と小声で言った。
「ようこそ」
部屋の奥からフローライトではない誰かの声が低く響いた。ルヴァは顔を上げる。壮齢の……というよりは、もう少し落ち着いた年齢の、学者……といった雰囲気の男が、ゆったりと肘掛け椅子に座っている。
「ベリル公爵様でしょうか……?」
「左様。ルヴァ君だね?」
静かな声だった。
“やはりフローライトには逢わせてはいただけないのですね……”
そう残念に思うと同時にルヴァは安堵していた。逢わなくて、別れだけを告げられるのなら、いっそその方が良いのかも知れない……と。
「フローライトは、領地の視察に出ていてまだ戻らんよ。話があるなら私が代わりに聞こう。君のことは娘から聞いて知っている。まあ、掛けたまえ」
怒っているでも、歓迎されているでもない、何かを確認しようとしているような目をしてベリル公は、自分の前にある椅子をルヴァに勧めた。無下に逢うことを拒絶されたわけではないのだと思うと、またルヴァは緊張する。
「お言葉に甘えまして……」
おずおずとルヴァは椅子に腰掛けた。
「さて……。君は何をしにここに来たのかね?」
「はい……あの……私は……」
声が掠れ、そこでルヴァは口を閉じた。ゴクリ……と唾を飲む。先の言葉が出てこない。
「どこかでフローライトの婚約を知って止めに来たのかね?」
言えないのなら言ってやろう……ほんの少しだけ鼻先で笑っているような言い方だった。
「私は……私は、約束したんです。フローライトさんは、三年して自分に恥じない生き方をしているなら会いに来て父を説得して欲しいと……」
だんだんと語尾が小声になっていく。
「知っている。それも聞いた。何故、娘がそう言ったか判るかな? 三年程度待ったところで、平民出身の君が、当家と釣り合う身分になっているわけではないのに?」
「判っています。彼女もそれは判っていたでしょう。たぶん……フローライトさんは、三年あれば、ゆっくりと少しづつでも、私との事を忘れられると思ったのではないでしょうか? 私も同じです。あの時は、きっぱりとお別れしてしまうのが辛くて……三年という区切りをつけたんだと」
「だが、その約束の三年を待たず、フローライトは婚約しようとしている。君のことはとっくに忘れ、良い縁談が来たのだと、そうは思わなかったのか?」
「思いました。それならば……それでいいんです。それなら一言、お祝いの言葉をお贈りし、すぐに立ち去るつもりでした。ただ別の事も考えられます。あの……お家の為に意にそぐわぬ結婚をされるのなら……」
「ほう。フローライトと駆け落ちでもするつもりだったのか?」
「いいえ。私はフローライトさんの性格を知っているつもりです。意にそぐわぬことでも、自分で決めたことなら、彼女は良い方へと道を切り開き進める人です。それに、彼女は父上を敬愛しているといつも言ってました。私が無理矢理、連れだそうとしてもフローライトさんは従わないでしょう。いずれにしても、私はここには、別れを告げに来たつもりです。お互い、今後の人生に悔いを残さぬように」
ルヴァが言い終えた後、ベリル公は、腕を組み、目を閉じて俯いた。重苦しい雰囲気に似合わない、温かな日差しが差し込んだ部屋の中に、庭先の
手入れをしている者たちの楽しげな歌が聞こえてくる。しばらくしてベリル公はゆっくりと顔を上げ、再び、ルヴァに問うた。
「君は、一体、今までどこにいたんだ?」
いままでの感情を抑えた静かな喋り方が一変し、額に手を置き、苦悩に満ちた表情で、ベリル公は言った。
「え……?」
「ルダ音楽院から戻るなり、娘は君の事を嬉しそうに話し出した。どんなことでも隠し事はしない、まず話す事、そのかわり、頭ごなしに怒ったりは決してしない……それが、私たち親子の間での取り決めだ。
そして、娘は、縁談が来ても三年間は待って欲しい、と言った。私はそれを承知したよ。フローライトの相手が、ルダ
の平民の文官と聞いては喜んでやるわけにはいかないが、まだあれも若いし、そう焦ることもないと思ったのでな。三年の間に気が変わると思ったのだ。しばらくの間、私たちは至って穏やかな良い日々を過ごし
ていた。だが、スイズとダダスの戦いは激しさを増し、ルダの西南部が壊滅状態にあるという噂を聞いたフローライトは、君に宛てて便りを何通か送ったのだ。君からの返事は来ず、やがて送った便りは束に
なって返ってきた。娘に頼まれて、私は、君の所在を調べさせたのだ。南部の視察に出たまま、一切の連絡が途絶え、君は戻って来ないこと、君の故郷の村の辺りが、戦火に巻き込まれて跡形もなくなっていたこと、さらに東南部一帯で幾度となく戦いが続き、大勢の民が巻き込まれたこと……。君の死を裏付ける数々の証拠に、フローライトは泣き続け、ついには寝込んでしまった……」
「そんなことになっていたとは……」
「そうして春は過ぎ、ダダスはスイズに押され、ついには敗北間近となったが、スイズ王城の動乱で、まさにダダスは、九死に一生を得た。スイズ軍がダダスの都へ侵攻しようとしていた直前、教皇庁より使者が遣わされ、直ぐさま停戦となったのだ、むろん、そのくらいは知っているだろうな?」
「はい……」
知っているも何もルヴァは、その動乱の現場にいたのだ。だが、彼はそれを口にせずベリル公の話を聞き続けた。
「戦争が終わり、ようやくフローライトは元気を取り戻した。心の傷を癒すように、私とともに領地内の様子を積極的に見て回った。戦火はこの地にまでは及んではいなかったが、不作のため、実りの少ない秋になることは判っていたし、ダダスの貴族階級として戦後処理に係る費用負担の割り当てもあった。ダダスの貴族は、皆、財政難になっていただろうけれど、我が領もご多分に漏れず……だ。年が明け、フローライトは自分から婿を取ると言い出した。その気になったのなら、それは喜ばしいことだと思ったが、幾人もの候補からあれが選んだ相手が……」
そこで、ベリル公は大きな溜息をついた。
「先ほど……お見かけしました。立派な馬車の……。お急ぎだったようで、チラリと垣間見ただけですが」
「フローライトのご機嫌を取りにやって来たのだが、いないと判るとこんな田舎に用はないとばかりに帰って行ったのだ」
その剣のある言い方にルヴァは、“やはり、あまり良くない人物なのだな……と”思う。でも、それならば、何故、そんな相手と? 直ぐさまそう問いたかったが、不躾かと思い留まった。
「あの男の家は、今でこそ貴族階級になっているが、先々代は大商人だった家柄だ。財産はあるが貴族としての地位は低い。三人兄妹の末のあの男は、多額の持参金とともに婿に入ることを承知している」
「名家との繋がりが欲しいと……いうことですか?」
「そうだ。そして、古い家柄だけが取り柄のこちらは金が欲しい」
学者風の容貌の上品な雰囲気のベリル公が口にするとは思えない、現実的な言葉だった。
「しっかりしているとはいえ、フローライトも若い娘なのだから、きっとあの男の容姿に心をときめかせたのだろうと思って、私もこの結婚話を進めようとした。だが調べれば調べるほど、あの男の良くない噂が耳に入る。私はフローライトにこの話はなかったことにするべきだと進言した。だが、フローライトは何と言ったと思う?」
「やはりお家の為に結婚すると……?」
「ルヴァ様以外の人と結婚するならば、誰でも一緒だから、この領地にとって一番条件の良い者と結婚する……と」
ルヴァは、頬がカッと熱くなると同時に、胸の辺りに何とも言えない切なさを覚えた。
「あの男には既に妾までいることを告げたのだが、それを嘆くどころか好都合だと言いよったのだよ。妾の所に入り浸ってくれれば、顔を見なくて済むと」
「そんなことを……」
「容姿だけが取り柄の男の、その顔も見たくないような結婚など……不幸すぎる。私がそう言うと、でも、あれだけの美形だから、子どもはきっと可愛いに違いない、それでいいと……」
ベリル公は、首を左右に振る。
「言葉が悪いが……、これではもう、やけっぱちではないか? そんな結婚は認めるわけにはいかん。だが、あれは頑として聞き入れん。あの男はそれを自分に心底惚れているのだと勘違いし、あちらこちらで結婚間近と吹聴しているという。ダダス王にまで、祝いの言葉を頂戴してしまった。私はあれこれと理由をつけ、正式の婚約を引き延ばしているが、それももう限界だ」
それまで堂々として大きく見えていたベリル公が急に小さく年老いて見えるような気がルヴァはしていた。
「小さな遺跡が領内にあるのだよ……」
肩を落としたままベリル公は、いきなりそう呟いた。
「ええ、聞きました。フローライトさんがお気に入りの場所だと言ってました」
「そんなことまで話していたのだね……君には。古いものだから、維持するには経費が相当かかるのだよ。すぐに手をいれなければ近いうちには崩れてしまう塔もある。戦争や不作続きで、そこまで手が回らぬ。だが、あの男の持参金があれば……。娘はそう考えているのだ」
苦悩しているベリル公にルヴァは何も言えず、ただ悲しげに床を見つめる。
「せめて君が貴族や大商人の家柄なら……、いや……。君が死んだとフローライトが思い込んでいなかったら、こんな馬鹿な結婚に突き進むことなど無かったのだ……。君は、今までどうしていたのだ? 今頃になってやって
来るなら、何故、便りも寄こさずにいた?」
ベリル公は、怒りの矛先をルヴァに向けることで、覇気を取り戻そうとするかのようにそう言った。
「ある事情からルダにすぐには帰れないと判った時、私は便りを出せる状況ではありませんでした。その後、少し落ち着いたものの、スイズ王城の動乱の後で、スイズからダダスに向けての文はしばらくの間、送る術がありませんでした。ようやく和平調停が為された後に一度、そちらに向けて文を送りましたが……。届かなかったのですね……。フローライトさんからの返事が来ないことを不審に思えば良かった……。申し訳ないこ
とをしました」
郵便物の不着事故は、スイズとダダスほどの距離ならば、たまにあることだった。ましてや戦中、戦後の状況では、もっと疑ってみるべきだったのだ……とルヴァは悔いるのだった。
「スイズにいたのかね? 苦労してルダの文官になったのだと聞いたぞ。その地位を捨ててまで戻らなかったのは何故だ? 見た所、身なりは役人風だが、スイズで職でも得たのかね?」
「私は今、教皇庁の執務官ということになっています」
「解せない話だ。教皇庁で執務官の職を得るには、それなりの身分と紹介状が必要なのだぞ? 確かに平民でも優秀ならばなれるが、書記官から長い下積みがあってこそだ。一年ほどでなれるものではない」
「それには、経緯があるのです。長くなりますがお話してもかまいませんか?」
あの時、フローライトとルダで別れてから、時間にすればたったの一年ほどが過ぎただけなのに、ルヴァの中では、何年も経ったような気がしている。それを今、上手く話せるだろうか……と心配しながら
彼は言った。
「聞かせて貰おう。その話が終わった時、君をフローライトに逢わせるかどうかを決める」
君という人物を見定めさせて貰う……ベリル公は、そんな強い気迫のこもった目でルヴァを見つめた。
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