列車に乗ってしまえば、ルヴァの心は次第に落ち着き始めた。故郷に戻ったフローライトにいずれ婚姻の話が持ち上がろうことは予測はしていたし、ルダで別れた時、もうこれきりになるかも知れないと覚悟はしていたことだ。
 確かに、それがはっきり現実となると、やはり心穏やかではいられなかったし、スモーキーたちが、けしかけたように、出来ることならば、彼女の気持ちを確かめた上ならば、強引に連れ去りたいとも思ったことも事実。
“けれど……”
 とルヴァは、冷静になって考える。現在、教皇庁の執務官としての身分をクラヴィスから貰っているが、平民であることには変わりなく、財産と呼べるものは一切持っていないのだ。こんな自分が行っても、一目だけでも逢えれば良い方で、門前で追い返されるかも知れない……と。
“それでも、自分の気持ちにけじめだけは、つけられるでしょうから……”
 そう思うことで、彼はこの急な旅立ちの意義を自分に言い聞かせていた。

 スイズを出て四日目の早朝、大陸横断列車がダダスに到着すると、ルヴァは直ぐさま、馬車の手配をし、北方にあるベリル公爵領へと向かった。馬車は、人の行き来の多い街の中心部を迂回し、都の西部を守るように北から南へと流れている河沿いの道を進む。河の西の対岸に所々、焼け野原が見えている。スイズ軍との戦いの跡だった。本当に王都の直前までスイズ 軍が迫っており、あのスイズ王城での動乱がなければ、そのままダダスの都は陥落していたはずだったのだ。その証拠を目の当たりにして、ルヴァは身震いした。
 やがて都の外れに差し掛かり、ダダス大学の時計台が前方に見えてくると、ルヴァにとっても馴染みのある街道が見えてきた。故郷の為に、ただひたすら勉学に励んだだけの二年間で、街中に遊びに出掛けたことなど一度もなかったのだが、それでも見慣れた大学付近の風景は懐かしく、あの頃の自分が何故かしらとても愛おしい存在に思える のだった。
「旦那、さっきダダス大学を卒業したと言ってましたね? 少し止めましょうか?」
 駅からここまで来る間に、ルヴァがスイズから来た文官のような人物で、ダダス大学に縁があったことまでを、既に聞き出していた馬車の御者は、気を利かせてそう言った。
「いいえ、いいんです。今は急ぎますから、帰りにでも……寄ります」
 ルヴァはそう告げると後は黙り込んでしまった。もうすぐフローライトに逢える……そのことにあまり喜びは無かった。別れを告げに行くのだと思うと、落ち着いていたはずの心が、 やはりまたどんどん沈んでいく。ルヴァの雰囲気を察知した御者もそれ以上は何も問いかけず、ただひたすら北へと馬車を走らせるのだった。
 その夜、ルヴァは、ベリル公爵領の手前に宿を取り、翌日、まだ暗いうちに出発した。日が昇り、農夫たちが畑仕事をし出す頃には、ルヴァの乗った馬車は公爵領に入り、一通りの店や宿屋などが揃っているそこそこの規模の町に到着した。公爵邸まで歩けば二時間ほどだと聞いたルヴァは、そこから先を歩いて行くことにした。
「本当に歩いて行かれるんですかぃ? 契約ではこの町までですけど行ってもいいんですぜ。一本道だけど、結構あるみたいですぜ」
 と馬車の御者は余分の馬車代を稼げなくて少し残念そうにしている。ルヴァは、「少し歩きたいから」と断って馬車を降りた。スイズ王都に比べれば、ここは少し北に位置するため、まだ少し肌寒い。それでも日向は、充分に温かく、歩くにはちょうど良い季候だった。時刻的にも そうすれば昼過ぎに到着するから頃合いだと思われた。町を抜けると、遠くに山が見え、その麓からゆるやかな傾斜が続いている。大きな一本道を挟んで一面の畑が続き、所々に農家が見えている。その様に、ルヴァは失われた故郷を思い出していた。客観的に見れば、鉱山の麓の狭い谷間にあった小さな貧しい村と、この緑なす豊かな風景とではまったく違うのだが、穏やかな雰囲気にルヴァはもう二度とみることの出来ない故郷の春を重ね合わせていた。ごく緩やかな登り坂を一時間近く歩いていると前方に木立が見えた。どうやらそこから先は、少し下り道になっているらしい。横倒しになって いる丸太の上で、四 、五人の農夫らしい者たちが休憩しているのが見えた。
「あの〜、すみません〜、私も少し、そこで休憩させて貰えますかーー」
 ルヴァが声をかけながら近づくと、人懐っこい笑顔の者たちが、手招きしてくれた。いずれもルヴァの両親ほどの年齢の者たちだった。ところが、その時、前方から、馬の嘶きと共に一台の馬車が駆けてくるのが見えた。のんびりとした道にそぐわぬ早さである。ルヴァは、慌てて道の端に寄った。道沿いに人がいるのに気づいた御者は、やや速度を落としたが、辺りのもの を蹴散らすように道の真ん中を走っていく。スイズ城の特別 製の馬車に匹敵するほどの豪華な馬車だった。気候が良いせいか馬車の窓は開けっ放しになっており、すれ違い様に、若い男の姿が見えた。一瞬の事だったが、豪華な羽根飾りのついた帽子 が似合う、美しい横顔をしていた。
「ふー、危ないねえ、あんた大丈夫かぁい」
「さあさ、ここへお座りよ」
 女たちは自分たちの座っていた丸太を開けて招いてくれた。
「ええ、平気です。ありがとうございます」
 ルヴァは、丸太に腰掛けようとして、自分の長上着に泥が付いているのに気づいた。
「さっきの馬車のせいだよ。時々、この道を通るんだけど、いつもあんな調子でさ」
 女が面白くなさそうに言うと他の女たちも一斉に頷いた。
「あの……随分と立派な馬車でしたね? あれはベリル公爵様のご縁の?」
「あれは……正式な発表はまだなんだけど、フローライト嬢様のご婚約者の馬車なんだよ」
「え? そ……うでしたか。ご立派な方がお乗りでしたね……」
 では先ほどの青年が……と思うと、ルヴァの声も沈む。男の自分から見ても、とても美しいと思える顔立ちだったのだ。
「立派なもんかね。確かに男前だけどさあ」
「そうだわよ、ねえ」
 女たちは口を尖らせる。
「何でぇ、お前たち。最初は、年甲斐もなくキャキャー言ってやがったくせに」
 女たちの勢いに隠れていた男がボソッと口を挟んだ。
「だって、お前さん。最初は、どういう男か知らなかったんだもの」
「あれだけの男前だ。それに貴族様なんだから妾の一人や二人いたって仕方ねぇやな」
 男がそう言うと、たちまち女たちが彼を取り囲み文句を言い始めた。
「何言ってんだい。そりゃ結婚後、何年かしてってことなら仕方ないかも知れないけどね、結婚前から妾がいるって噂はどういう事だいっ」
「フローライトお嬢さんが不幸におなりになってもいいのかい?」
「けどよ、婿に入られるんじゃ、それなりに前の関係は清算されるおつもりなんだろ? 結婚前のお遊びがちょいとばかしあったって……」
 男に全部を言わせないで、別の女が突っかかる。
「何がちょいとばかしだよっ」
「そうよ、どうせ領内のことはお嬢さんにまかせっきりにして、自分は遊んで暮らすつもりなんだよ、あの派手な馬車で判るだろう? あんたねぇ、男だからって、あんなヤツの肩持つと承知しないよ」
 女たちたちの剣幕に、男は頭を掻きながら黙り込んでしまった。ルヴァはその様子をあっけにとられて見ていたが、ハッと我に返る。
「あの……さっきの方、そんなによくない方なんですか?」
「まあね、少なくともあのさっきの様子のまんまのお方だよ。貴族の態度は、皆あんなもんかも知れないけど。でもベリル公爵様は違うよ。野道のカエルさえ踏まないように気をつけて馬車を走らせなさるようなお方だよ。男のあんたからすりゃ別に女遊び位……と思うかも知れないけれど、 ベリル公爵様は、奥方を亡くされても、跡目もお取りにならずにいらしたようなお方だよ。それに、私らは、フローライトお嬢さんをお小さい頃から知ってるもんでね、お幸せになって欲しいんだ」
 女の言葉に、ルヴァの気持ちは一層、複雑になっていく。明るく快活な性格だが、竪琴を奏で、歴史書を静かに読むのを好むフローライトが、容姿の良さだけで恋愛感情を持ち、結婚相手に選ぶとは思えない。だとするとそこには、家の事を考えた事情があるはずだが、それこそ平民であるルヴァが一番太刀打ち出来ない部分なのだ。考えこんでいる彼に、端に追いやられていた男が声をかける。
「あんたは役人さんかい? 公爵様のお館に行くのかい?」
「あ、は、はい。そうです。ちょっと御用でしてね……それじゃあ、そろそろ失礼しますね」
 ルヴァは農夫たちに丁寧に頭を下げ、再び歩き出した。その足取りは重い。のんびりとした風景に癒されて、沈む心が幾分救われていた所に、先ほどの婚約者の事聞き、また彼の気持ちは落ち込んでいくのだった。

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