神鳥の瑕 第二部 OUTER FILE-04

約 束
 

  
 
 『スイズ王城の動乱』から、もうすぐ一年。ようやくスイズの国家体制も整いつつあったが、国政を担うリュミエールやスモーキーたちの慌ただしさには変わりがなかった。クラヴィスの方も、新教皇となって半年近く、新旧の体制の狭間の中で、自身の自由となる時間などなかなか取れないでいた。 ルヴァは、教皇庁の執務官になり、スイズ国政府との窓口のような仕事に従事していた。お互いが多忙の中で、執務とは関係なしに、ゆっくりと逢うこともままならぬ日々を過ごしていた……。
 
 春の日差しは温かく、まっすぐに陽の入り込んでくる窓際の席に座っていると、汗ばむほどである。ルヴァは、額に滲んだ汗を拭いながら、 何冊もの資料を前に調べものをしていた。スイズ王城の図書室は、蔵書も多く、ルヴァは調べものがあると、教皇庁の資料室よりもこちらを利用することが多い。
「よぉ、ルヴァ」
 静かな図書室に、陽気な声が響く。振り向かなくても判る、スモーキーの声だった。
「あー、こんにちは。スモーキー、ちょっと待って下さい……ね」
 ルヴァは、調べていた数値を書き記すと、振り向いた。
「おや、まあ、クラヴィス〜。どうしたんです?」
 スモーキーの後に、クラヴィスが、ぼうっと立っていた。
「教皇様は、あんまり天気がいいんで、教皇庁をお忍びで抜けて来たそうだ。せっかくだから、リュミエールのところでお茶でも頂戴しよう……ってことになってな」
「あ〜、それはいいですねえ。皆が揃うのは久しぶりですし」
 ルヴァは、読みかけの本に栞を挟み込み立ち上がった。 
「クラヴィス〜、本当に独りで抜け出て来たんですか? 今頃、心配なさってませんか?」
「独りではない。出掛けに門兵に見つかり、共の者が無理矢理、着いて来た。リュミエールの所に先に行かせてある」
 クラヴィスは、面白くなさそうに言った。
「まあ、そういうことなら……」
「困った教皇様だろ?」
「ふん」

 三人が打ち揃って、リュミエールの私室に行くと、クラヴィスの共の者が、来訪を告げていたらしく、お茶の用意が丁度、調った所だった。
「すみませんねえ、リュミエール。突然、お邪魔して」
「ようこそ、皆様。お久しぶりですね、皆様とお茶するのは。爺、これを……」
 リュミエールはそう言うと、自分の前にあった何冊もの書類挟みを、執事の方に押しやった。
「すまぬ、リュミエール、忙しかったのではないか?」
「い、いいえ、執務ではないのです、私もちょうど、休憩をしていたところなんです」
 リュミエールは、さらに早くそれらを片づけるよう執事に目配せをする。執事の方は、些か不服そうではあるが、致し方ないとばかりにその書類挟みを掻き集めた。
「おや? これ……釣書じゃないか?」
 スモーキーは、たまたま開けたままになっているものを見て言った。
「リュミエール、良いお話があるのですか?」
 ルヴァも、思わずそれを覗き込む。
「いえ、爺が勝手に……。わたくしにはまだまだ先のことですから」
 リュミエールは困った顔をしている。
「そりゃ、まあ、まだ成人もしていないんだからなあ。けれど、王族としては婚約するには頃合いかも知れないな。王家や大貴族では、生まれてすぐに許嫁が決まることも多いじゃないか?」
 何気なくスモーキーが言うと、執事は嬉しそうに彼の方に向き直った。
「そうでございましょう、クリソプレイズ様。ご結婚はまだまだ先として、ご婚約だけでも……と思うのでございますよ」
 執事は親しい間柄のスモーキーやルヴァ、そしてクラヴィスの言うことならば、リュミエールも頑なな態度を和らげるかも知れないと、この場を借りることにした。
「スイズの国政も一掃され、昔とは違います。こういった制度も、古い慣習に惑わされることなく決めるべきだと思います。あの……家名や身分などで政略的に決めてしまうのではなく……本当に気に入ったお方と……」
 リュミエールは、なんとなく気恥ずかしい気持ちになりつつも、精一杯言い返した。
「この爺の願いは、もちろんリュミエール様のお幸せでございますよ。だからこそ、お早いうちに良い方と出逢い、長い時をかけて愛を育みあそばすのが良いと思うのでございます。のんびりされていると、この方こそと思う良い姫君は皆、 先にご婚約されてしまいます。事実、爺が密かに一押しと思っておりました姫も……」
 執事は、一冊の書類綴りを抜き、スモーキーに差し出した。
「このお方は、ぜひ……と思っていた方なのでございます。ダダスの古いお家柄の姫君で、明朗快活なご性格との事。きっと良いご関係になれると思いましたのに……」
「そうだな、リュミエールには、そんな女性の方が似合うかも知れないなあ。どれどれ、ほお、フローライト・ベリル公爵令嬢かあ。朗らかそうな可愛らしい姫君だ。リュミエールと同い年くらいじゃないのか?」
 釣書に添えられてある小さな肖像画にスモーキーは目を細める。
「いえ、お歳はリュミエール様より少し上でございます。その肖像は三年ほど前のものですから。リュミエール様は、私の話も聞かず、見ようともなさらないのでございますよ。その姫は、ルダ音楽院でリュミエール様とはご学友だったお方で、ご聡明との事ですし、ご趣味も合うと思いましたのに……」
 執事の言葉に、リュミエールは、驚いた顔をした。
「竪琴の趣味がおありのご令嬢だと申しましたよ?」
「確かに爺はそう言ったような気がしますけれど、ルダでご一緒していた方だとは言ってませんよ」
「そうでごさいましたか? ですが、今頃、お気に留めて下さっても遅うございます。その姫は、もう別の方とのご婚約がお決まりになってしまいました」
 執事がそう言った瞬間、何か異様なまでにその場の空気が変わったことにスモーキーは気づいた。クラヴィスに目をやると、いつものように目を細めて、マイペースで茶を飲んでいて変わりない。だが、ふと視線をリュミエールに移すと、彼は凍てついたように固まっている。
“な、なんなんだ? よっぽどこの姫君が気に入った……の……か?”
 と、スモーキーは一瞬思ったが、異様な気配は、リュミエールではない所から漂っている気がする。リュミエールの視線の方向……。スモーキーは振り返り、自分の横に座っているルヴァを見た。その肖像画をじっと見つめている。
「あの……その姫君がどうかなされましたか?」
 執事もこの雰囲気を察知し、皆を見渡しながら言った。
「……ルヴァ様……」
 リュミエールの声が震えている。ルヴァは、ぼうっとしていて答えない。
「ルヴァ様」
 ともう一度言われて、ルヴァは我に返り、何事もなかったように顔を上げた。
「あ、はい。何……ですか?」
 平静を装ってはいるが、表情が異様なまでに固い。
「ルヴァ、一体、どうしたんだ? 急に」
「すみません……。ちょっと……。いえ、大したことではないんです。もうお気になさらずに……。ええ、本当に、何でもなくてですね……」
 取り繕うとすればするほどルヴァの雰囲気は変になっていく。
「ルヴァ様、もしや、フローライトさんじゃないんですか? ルヴァ様の……」
 リュミエールが控えめに言うと、クラヴィスは、手にしていたカップを置いた。
「ふむ……。ルヴァに、あの例の宝飾品……衿止めのブローチをくれたという女性か?」
 クラヴィスもスモーキーも、ルヴァに想い人がおり、その人物から、衿止めを貰ったらしいことまでは知っている。リュミエールの方も、音楽院での様子から、それがフローライトではないかと薄々は感じていた。皆の視線が自分に集まり、ルヴァは、隠すのを諦めたように、小さく頷いた。
「いいんですよ。もう。最初から身分が違うのですから。三年経って自分に恥じない生き方をしているなら迎えに来て欲しいと彼女は言いましたけれど、時を費やしたからと行って、平民の私が貴族になっているはずもないでしょう。たとえ私に何か地位があったところで、リュミエールの元にお話が届くような名家のあちらとはとうてい釣り合いません」
 ルヴァは本当に何でもないのだ……と言うように微笑みながらそう言ったが、その瞳は寂しげにカップの中のお茶を見つめている。 そんなルヴァに、リュミエールもクラヴィスも言葉を返せないでいた。こればかりは、彼らの権限を持ってしてもどうにもならないことだった。平民が貴族の称号を得るには、それなりの実績が必要だった。スイズ王となったリュミエールの教育係であり、ルダからずっと彼を保護し続けた功労を鑑みたとしても、まだ年若いルヴァが貴族の称号を得る為には、この後、十年ほどの年月を待たねば推薦することさえ出来ないのだった。
「爺、フローライトさんの釣書や肖像画はどうやって手に入れたのですか? 私の元に出されたものなのに、先に他の方とご婚約が決まってしまうのは変ではありませんか?」
 リュミエールは、彼女の婚約に関しての情報を疑うかのように執事に尋ねた。
「これは正式のものではないのです。随分前から先代様の命で、リュミエール様とご身分や年齢などが合うのでは……と思われるような姫様を、各国の執務官や文官に依頼し、非公式に手当たり次第、集めてあったものなのです。戦争が悪化し、ダダスの姫君はその候補から一旦は外されましたが、今となってはダダスとの友好を考えても、リュミエール様のご趣味を考えても 、ベリル公爵ご令嬢は良いお相手ではないかと思い、独自に調査させておりましたのです」
 執事は、ルヴァを気にしながら、少し気まずそうに白状した。
「父上が? そんなご準備をなさっていたのですか……」
 自分には何の打診も無かったことに、今更ながらではあるが、リュミエールは少し怒りを覚えていた。
「そのフローライト嬢の家柄は、スイズ王家に見合うほどの大貴族なのかい?」
 スモーキーが問うと、執事は首を振って否定した。 
「いいえ。ベリル公爵様のご領土や財産的な面では、お相手としてはどうか……と思われます。ですが、古い由緒あるお家柄なのでございますよ。代々、長子はダダス国政の文化 ・学術面での要職にお付きになっておられますし、他のご兄弟はダダス大学の学長に就いてらっしゃる方も多うごさいます。ダダスのみならずスイズにおいてもベリル公爵家といえば、とてもご尊敬されているのです」
「なるほど……。品行方正なお家だと言うわけだな。で、ご婚約が決まったというのは本当なのか?」
「懇意にしております文官が、ダダスに駐在しておりまして、少し前に、その者から文がとどいたのでごさいます。婿を取られるのだと。少なくとも内定……ということではないかと」
 執事は、申し訳なさそうにルヴァの方をチラリと見て俯いた。それまで何の発言もしていなかったクラヴィスが、ふいに立ち上がり、自分の従者が控えている隣室の扉を開けた。
「三時発の大陸横断列車を、止めておくようすぐに駅に伝えよ」
 クラヴィスは、何でもないことのように命令する。クラヴィスの従者は、目を見開き、「な、なりません。い、一旦、教皇庁にお戻りになってからでないと。スイズ王城までと思いこそすれ、私が同行するだけで抜け出せましたが、それ以上は!」と慌てふためく。
「誰が私が乗るために……と言った? ダダスに、捨て置けぬ火急の用が出来た故、使者を送らねばならぬのだ。先に早馬で行って、このルヴァが行くまで列車を止めておくのだ。早くせよ! 間に合わなかったらお前のせいだぞ」
「は、はっ」
 何が間に合わぬのか、火急の用とは何なのか、訳のわからぬままに、半ば脅されるかのように従者は、命じられ、慌てながらも駆けだして行った。クラヴィスの従者が、慌てて退室してゆく様に、何事かと様子を見に来た城の武官に、リュミエールはすかさず、「馬車の用意を! 門前ではなく裏門に付けて置きなさい。駅まではその方が近いですからね、一番足の早い馬車ですよ」と 有無を言わさず命じた。
 執事とスモーキー、ルヴァはその様子をあっけに取られながら見ていた。

「おい、お前たち、共和制が浸透しつつあるスイズ国で、最高地位にありながら、堂々と職権乱用をしでかしてくれるじゃないか」
 もちろん、非難するではなく、スモーキーは笑っている。
「あの……クラヴィス、リュミエール、一体、急にどうしたのです……か?」
 当のルヴァは、何かを怪しむかのように彼らを見回した。
「何を仰ってるんです、ルヴァ様! ルヴァ様がお行きになるんですよ。ご婚約が正式なものでなく内定なら、まだ間に合いますとも!」
 リュミエールは、握り拳まで作ってルヴァに訴えかける。
「ちょ、ちょっと待って下さい。そんなことできようはずありません。フローライト自身が選んだお相手かもしれないですし。私のことなんかはもう……」
「もしかしたら嫌々、ご婚約されるのかも知れませんよ、ルヴァ様の事を想っていらっしゃるのに……」
 リュミエールの言葉が、ルヴァの心に突き刺さる。追い打ちを掛けるように執事の方も「お家の為に決まっていますよ。仕方ないとはいえ……お可愛そうなことです」と呟く。
「でも、私が行ったところでどうなるものでもないですよ……。ベリル公爵に許されるはずもないです」
「なあ、ルヴァ。フローライト嬢は、どうして、三年経って自分に恥じない生き方をしているなら迎えに来て欲しい……と言ったんだ? 三年ならば、ルダの文官だったお前がどう頑張ったってせいぜい文官長程度の出世しか望めないのは判ってたはずだ。三年たっても心が変わらず、お前が正しくあるなら、その時は家を捨ててでも……という決意があったんだろう? そんな想いで待ってるのに、いいのか?」
「まだ……三年経っていません。それまでに他に好きな人が現れたらごめんなさいね……とも彼女は言いました。新しい出逢いがあったのでしょう……きっと」
 ルヴァは自分に言い聞かせるようそう言った。その場にいる全員に取り囲まれる形となって、彼は力無く座っている。
「それならそれでいいじゃないか。お前の心に区切りをつけるためにも逢うだけでも逢って来いよ。もし彼女がお前を想っているのに、家の為に嫌々ながら婿を取るなら不幸なことだぞ? もう一度会ってきちんと話し合うべきだ。その上で、彼女が家を取るというのなら仕方がない。その時は、一言、おめでとうと言ってやれば、お互い気持ちの整理もつくだろう?」
 スモーキーの発言に、ルヴァ以外の者たちは全員頷く。
「己の裡なる声を聴け。お前の心は何と言っている? 彼女に逢いたいと、叫んでいるのではないのか? 結果を恐れて足が竦み諦めてしまうほどお前はまだ老いてはいない。動ける者が行動せぬのは怠惰以外の何者でもない」
 クラヴィスは、ルヴァの背後から静かにそう言った。
「お。お前、この頃、説教慣れしてきたなぁ」
 感心したようにスモーキーはクラヴィスを見る。
「ふん。歴代の教皇語録にある言葉を引用しただけだ」
「やっぱり、そんなところか、どうりで棒読みっぽいと思った」
 スモーキーが笑い、クラヴィスがそれを睨み付けていると、リュミエールの側仕えが「馬車の用意が出来ました」と告げに来た。
「私は……」
 ルヴァは、困り果てた様子でまだ座ったままである。
「ルヴァ殿。今、お行きにならないと後悔なさいますよ。私だって長いこと生きておりますからね……人生の終わりの見えているようなこの歳になっても、悔やまれることがあります。あの時、こうすれば良かったと……。お相手があることなら尚更ですよ」
 執事がしんみりとそう言うと、ルヴァはやっと顔を上げた。
「聞いたか? クラヴィス、心から出る言葉には、真実味というか、重みがあるよなあ」
「まったくだ。私の代わりに説話会に出て欲しい」
 クラヴィスは、真顔で頷く。
「ありがとう、皆さん……そうですね、このまま逢わないでいるよりもはっきりとお別れした方がいいですね」
 ルヴァは、お互いの気持ちに終止符を打ちに行くつもりでいる。だが……。
「ダダスの北部から駆け落ちするなら、列車の通っている南部に向かわず、そのまま西へと向かえ。ダダスからルダを越えされすば、すぐに教皇庁管轄地の北部鉱山がある。大男が北部一帯の責任者になってるから、事情を話せば匿ってくれる」
 スモーキーは、良い考えだろうと言うようにニヤリと笑って頷く。
「それならば、ルダ領土に入ったらすぐに、ルダ旧王城に行かれたほうがよろしいのでは? アジュライト兄上がいますから」
 リュミエールも、まだ国土は荒れたままと言えど、兄アジュライトの赴任で体制の調えつつあるルダ王都の方が、女性と一緒ならば、鉱山地帯よりも良いだろうとそれを促す。
「いや、むしろ急いで南下し、大陸横断列車に乗って、一気にスイズまで戻ったほうが早い。教皇庁に駆け込めば手は出させないぞ」
 追っ手に怯えて面倒なルートを行くより、強引に突き進む方が賢策だとクラヴィスは言う。
「あの……あのですね、別に駆け落ちしに行くわけでは……」
 だが、ルヴァの呟きなど誰も聞いてはいない。三人は自分の勧めたルートが一番だと主張し合っている。そんな中、リュミエールの執事だけが、一旦室外に出て行き、直ぐさま、地図と着替えや常備品などを麻袋に詰め込んだものを携えて戻ってきた。
「これは視察に出向く官吏の為に常備してあるものなんです、お使い下さいませ、ダダス往復の路銀も仮払いとして入ってありますから!」
「さすがリュミエールの爺だな。さあ、とっとと行って来い」
 スモーキーは、ルヴァを立ち上がらせる。
「で、でも、急すぎやしませんか? 私ははまだ調べものの途中ですし、あの……その、明日に出発でも……」
 ルヴァが、小声で抵抗すると、一斉に皆が睨み付けた。
「わ、判りましたよ、い、行ってきます!」
 観念し、麻袋を受け取ったルヴァを、スモーキーたちは、馬車まで追い立てる。
 クラヴィスやスモーキー、リュミエールたちとの久しぶりのお茶会が、こんな形で終わろうとは思いもしなかったルヴァは、気持ちの混乱が収まらぬまま、大陸横断列車に乗り、ダダスへと向かったのだった。
 

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