第八章 蒼天、次代への風

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 教皇庁からやや北東に向かった所、スイズ王都に隣接する形で、ジェイド公領は広がっている。腕の立つ者に早馬を走らせれば一時間ほどで王都へ辿り着く距離である。教皇庁から戻った翌日、クラヴィスが戻って来た事を、まだ知る由もないジェイド公は、腹心の武官を連れて、久しぶりに領内を視察しようとしていた。館の前庭を抜け、街道に出ようとした彼らは、向こうから馬が駆けてくるのに出くわした。馬上の若者は、教皇庁からの文書を携えている事を印す赤い布地に神鳥の紋入りの腕章を付けている。名までは判らぬが、何度か使い立てしたことのある見知った顔の青年に、ジェイド公は手を挙げて自分の所在を示した。
「何事か?」
「ジェイド公様に、教皇様よりの文でございます。行き違いにならずようございました。返事は急がぬので、ゆるりと考慮されたし、との事でごさいます」
 使者の若者は、そう告げると小さく薄い文書箱から、親書を取り出しジェイド公に手渡すと、一礼の後、去っていった。
 ジェイド公は、一旦、馬を降り、手綱を武官に預けると、その場で文を開封した。全てを読み終えた後、彼は、それを小さく折りたたみ懐に入れた。
「何かあったのですか?」
 武官が尋ねる。
「……クラヴィスが戻ってきたそうだ」
 ジェイド公は、静かにそう言った。武官は「えっ」と驚いたまま何も言えなくなった。
「詳しいことまでは書かれていないが、全ては教皇様の知る処となったようだ」
「そ、それでは、あの……お咎めが……」
「いいや……。咎めはせぬと仰せだ。今はスイズ国の大事な時、再建に尽力せよと。そうすることで罪を償え……と言うことらしい。クラヴィスもそれで承知していると」
 ジェイド公は、天を仰いだ。そして、その文の続きを、武官に語った。セレスタイトが、聖地人となり、もうこの地にはいないことを。

「そ、それでは、どうあっても次代の教皇様は……」
「クラヴィスがなるしかないのだ。……最初から、そうなる運命だったのだ。聖地は欺けぬ……」
「と、取り急ぎ教皇庁へ行く準備をなさいませんと!」
「いや……。行かぬ」
 ジェイド公は、空を見つめたまま、そう言って武官を止めた。
「返事は急がぬそうだ。少し一人で考えたい」
 ジェイド公の視線が、すぐ近くにある見張り塔へと移った。
「あそこで風に吹かれながら気持ちを落ち着けたい、お前はここで待っていなさい」
「あの塔は危のうございますが……」
 塔は、随分古いもので壁の一部が崩れ落ちている箇所もあり、取り壊す計画もある。その危険性を知らぬジェイド公ではないのに……と武官は訝しげに言った。  
「よいか。私は自害など決してせぬぞ」
 心配そうに見ている武官に、ジェイド公は強い口調でそう言った。
「も、もちろんでございますとも」
 唐突にそう言ったジェイド公に、武官は安心したように頷いた。
「私が命を落とすことがあっても、それは事故だ、よいな」
 武官はその言葉の意味を一瞬考え、そしてすぐに青ざめた。
「な、なりません、なりません」
 そう言うのが精一杯の彼は跪き、ジェイド公の足にしがみついた。
「だから自害はせぬと申しておる。離せ」
 顔をあげた武官と俯いたジェイド公の視線が合った。
「クラヴィスが次代の教皇となるのだぞ。その命を奪おうとした私が、どうしてこの先、何食わぬ顔をして生きていけよう」
「しかし、スイズの為に尽くせと仰せならば、枢機官は退任されましょう、そうすればさほど顔を合わせることもなく……」
「それでも年に何回かは逢うだろう。クラヴィスに傅かねばならぬのだぞ?」
 ジェイド公は、とうてい出来ぬ……というように首を振る。
「し、しかし!」
「それに、我が妹は、恐らく居たたまれない気持ちになっていることだろう」
「それならば、尚更、皇妃様が悲しまれます!  教皇様もクラヴィス様も、咎めはせぬと仰せなら何も無かったことに! この事を知る者は、今となっては私だけです。もちろん他言などしません。直接、手を下したあの武官兄弟も、弟は始末し、兄は行方不明なのですから。どうか、どうか館へお戻り下さいませ!」
 武官は立ち上がり、ジェイド公を館の方へと行かせようとする。悲壮な顔をして「お戻り下さい」と叫び続ける武官に、ジェイド公の体から力が抜けた。武官はジェイド公の肩を抱え、引きずらんばかりに歩き出し、ようやく館に連れ戻したのだった。
 
 疲れて気分が悪い……ということにして、私室に引き籠もり、軽い酒を飲むと、些かなりともジェイド公の気持ちに落ち着きが生まれてきた。彼は、教皇からの親書を取り出して、再度読んだ。罪を悔いているのなら、その命をスイズの為に使えと切々と説いてある。そうすべきなのか?……とジェイド公は何度も何度も自分に問う。武官はジェイド公が、早まらないように、片時も側を離れようとせず、ずっと部屋の角で直立している。
「もうよい……。下がれ……」
「いえ。今宵はこのままお側に控えております」
「もうとっくに日が落ちている。食事も取らせぬつもりか? お前も腹が空いただろう? 一緒に広間へ行こう」
 ジェイド公の言葉に、武官の顔が明るくなった。
「もう大丈夫だ……」
 ジェイド公は青ざめた顔のままだが、そう言った。口から出任せを言ったつもりはなかった。軽はずみなことはせぬ、スイズのために力を尽くそう……とその時はそう思い直したのだった。

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