第七章 光の道、遙かなる処

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「は、母上……、父上」
 彼女の膝の上のセレスタイトから弱々しい声がした。
「セレスタイト!」
 教皇は思わず、彼の方に向き直り、その手を握りしめた。
「ぼんやりと、声が、聞こえ……ていました。そこに、いらっしゃるお方の……」
「聞こえていたのか? お前は聖地に行くのだよ、セレスタイト。なんと素晴らしいことだろう」
 教皇はそう言いはした。心から喜んでいる風にはとうてい聞こえない悲しみの籠もった声で。
「よく、わかりませ……ん、何か……混乱して、いて。ただ……」
 セレスタイトの声が、そこで一旦途絶えた。
「ただ? ただ、どうしてのです?」
 皇妃は、また瞳を閉じてしまった彼を少しだけ揺すぶった。
「ただ……、悲しい……ことでは、ないと……。母上、泣か、ないで。ク……ヴィスも、無事のようですか……ら。父上……さっき、聖地を見まし、たよ。美し……い……、うっ」
 小さな叫び声と同時にセレスタイトは、口と瞳を閉じた。
「母者よ。セレスタイトを私に」
 闇の守護聖は、皇妃のすぐ間際に座り込み、両手を広げた。皇妃はもう抗うことはせず、そっとセレスタイトの体を、その腕の中に託した。ズシリとした体の重みが、闇の守護聖 に伝わる。随分痩せたとはいえ、セレスタイトは、闇の守護聖と同じほどの体つきをしている青年なのだ。
「このまま失礼する。この者を抱え上げられるほどの力は私にはないので」
 闇の守護聖は片膝だけをつき、セレスタイトの上半身を支えたままの姿勢で言った。
「残された家族が、後に窮しないようにそれなりの配慮はするのだが、お前たちは何を望む? 見た所、何の不自由もないようだが」
 そう問われて教皇は頷き、何もいらないと首を振った。
「では、せめてこれを」
 闇の守護聖は長衣の内側に忍ばせてあった水晶球を取り出した。掌にすっぽりと収まる程度の大きさのそれは、薄い空気の層が入り込んだまま結晶化し、光が当たると虹色に煌めく。教皇は両手で水晶球をしっかりと受け取った。
「あ……これは……」
 指先から伝わるのは鉱物の冷やりとした感覚だけではない。
「私のサクリアを封じ込めてある」
「ありがとうごさいます。聖地よりの証しとして民にも見せてやってもよいでしょうか?」
「よい。だが、あまり聖地にこだわることはない。この地はお前たちのものなのだから。陛下や守護聖の力は、この地にも降り注ぐが、それは日の光、雨の恵のようなもの。それを活かせるかどうかは、お前たち自身の力で為すべきことなのだから」
 静かにそう言った後、闇の守護聖は、一瞬、黙り込み、そして言葉を続けた。
「東の地のことは、どこまで伝わっている?」
「は……あの、聖地の管轄故に時が満ちるまで関与してはならぬ……と。その言いつけは未だなんとか守られております。どこの国も東へと兵を進めるようなことはしておりません。ただ何人かは、山や海を越え、向こうに渡ったかも知れません」
「そうか。近い将来、その時が満ちるかも知れない。聖地はそれを期待して、この地を見守って……いや、その気配に耳を澄ませていたと言うべきか……。その時が、そなたの息子クラヴィスの代であるなら、彼は、聖地とこの地の関係について、自分たちの紡いできたサクリアについて知ることになるであろう」
「クラヴィスは、クラヴィスは無事なのでしょうか? 戻ってくるのでしょうか?」
「サクリアは、悪しき者には決して宿らぬ。クラヴィスというものの裡にしっかりと存在する。その気配を私は、さほど遠くない場所に感じることが出来る。そして、セレスタイトを聖地に召還する今、それは大きな胸騒ぎとなってクラヴィスに訴えかけるであろう。旅人はいずれ成長して故郷に帰ってくるだろう」
 教皇と皇妃にとっては力強い言葉だった。二人の顔にほんの少し笑みが戻る。
「それでは、離れていなさい。聖地への門を開く故」
 既に闇の守護聖を包んでいた光の靄がさらに大きくなっている。
 教皇たちは部屋の角に退き、床に跪いた。セレスタイトの下半身は、既に光の中に吸い込まれたようで何も見えない。闇の守護聖の腕の中にあったセレスタイトの顔が、ゆっくりと両親の方に向いた。そして瞳が開かれ、二人に礼を言うように微かに唇が動いた。皇妃は教皇に縋りながら、溢れる涙の中で、息子に小さく手を振った。
 闇の守護聖とセレスタイトの姿が完全に光の中に呑まれ、一段とまばゆい閃光が、室内に満ちた。教皇たちは目を開けていることが出来ず思わず手を翳した。
 再び彼らが、ゆっくりと目を開けた時、辺りはもう完全に暗くなっていた。セレスタイトが先に灯していたランプの灯りがなければ、何も見えなかったであろうほどに。教皇はゆるゆると立ち上がり、無意識のうちに開け放たれた窓辺へと歩いた。膝が作り物のようにぎこちなく軋む。大きな溜息が自然と出る。
「あ……ああ」
 と教皇は呻き声に似た声をあげた。とうに見えなくなっていた聖地が再び彼の目に見えていた。闇の守護聖がサクリアを込めたという水晶球が手の中にあったからだった。教皇は、床に座ったまま呆然としている皇妃を呼んだ。よろけながら窓辺に来た彼女の手を、水晶球の入った自分の掌の上に置かせた。そして、皇妃の頬にまだ残っていた涙の粒を教皇はそっと拭い、その肩を引き寄せた。
「見てごらん。あの大木の真っ直ぐ上を」
 皇妃は言われるままにそこを見る。
「まあ……あれは……あれが?」
「聖地だよ。あそこに私たちの息子がいるのだ」
 二人は寄り添い、聖地を見上げた。
「私たちはセレスタイトを失ってしまったわけではないのですね」
「そうだよ。あのお方は仰った。サクリアとは光のように降り注ぐものだと。私たちはずっとあの子を感じながら生きていけるのだ」
 教皇も皇妃も、今し方の出来事に心は未だ動揺したままだったが、聖地の輝きの中に、セレスタイトの明るい笑顔が見えている気がし、ゆっくりと心の中が、暖かなもので満たされていくのを感じていた。
 

 第七章 光の道、遙かなる処 終
第八章 蒼天、次代への風 へつづく

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