第五章 月の涙、枯れ果てて

 12

 
 馬……と呼ぶにはあまりにも太っていて毛足が長い。リュミエールは初めて間近で見る砂漠馬の姿を、面白そうにじっと見つめながら思う。鼻先は確かに馬のそれだが、瞳は重そうな瞼の下に隠れてよく見えない。この瞼のお陰で砂が目に入り込むのを防いでいるのだと、言われれば納得できる。どっしりとした足はまるでズボンを履いたような長い毛で覆われている。ユーモラスな姿の砂漠馬が三頭、荷馬車に設えられて出発を待っている。
 ルヴァと御者は、地図を見ながらルートを確認していた。何度も首を横に振る御者に、ルヴァは頭を掻きながら交渉を続けている。
「だから無理ですぜ、旦那。無茶を言われちゃ困ります」
「そこをなんとか」
「それっぽっちの運賃で遠回りなんて割にあいませんや」
 金銭的なことで話が纏まらないらしいと知ったリュミエールは、身に付けた小間物袋の中から、様々な色石がついたブローチを取り出した。
「あの……ルヴァ様、これをお使い下さい」
 リュミエールはルヴァの側でそう耳打ちして、ブローチをルヴァに手渡した。そういうものに馴染みのないルヴァでもそれが並大抵のものではないと判る。
「とんでもない、リュミエール。これでは馬車ごと買えて、まだお釣りが来ますよ、たぶん」
 ルヴァはそう言い、ブローチをリュミエールに押し返した。その様子を見ていた御者は、「そいつは確かに高価すぎるみたいだが、何なら旦那のものでもいいですぜ。ちょっとばかし古そうだが、遠回りの駄賃としちゃ釣り合う」と、ルヴァのマントの襟元を指さした。フローライトに貰ったあれである。
「こっ、これはダメです! 絶対にっ」
 慌てて襟元を押さえ込むルヴァの横で、その様子を見ていたリュミエールが別のものを袋から取り出した。薬を入れて持ち歩く為の小さな銀細工の小箱である。
「それならこれでどうでしょう?」
 ルヴァが止める間もなく御者は、リュミエールの手からそれを奪い取った。
「へえ。これで交渉成立だ。ちゃんと遠回りさせて貰いますぜ」
 御者は、さっそくポケットに仕舞い込む。
「遠回りはもちろんの事、水と食料代も用意して下さいよ。それから、私たちの席に新しい砂よけ布を張って下さい」
 ルヴァがそう言うと、御者は「わかりやしたよ。すぐ用意しますんで、ちょっと待っててくだせぇ。抜け目ない旦那だなあ。いいカモだと思ったのによう」と文句を言いながら去っていった。
「抜け目ないのはどっちですか、まったく、もう。すみません、リュミエール。でも、良かったのですか? あの銀細工の小箱、大切なものでは?」
 ルヴァは、心配そうに言った。
「はい。構いません。同じようなものをまだ持っていますし。それに、私のせいで、駅馬車代も、宿代も二人分払わせてしまったんですから。路銀が足りなかったのでしょう?」
「ええ、実のところ。帰りの路銀が心許なくて。お陰様で、サンツ渓谷に入ってすぐの村まで行って貰えることになりました。そこからなら、私の故郷の村まで一日程度で済みますよ」
「中央砂漠……地図でしか知らない場所ですが、延々と砂丘ばかりって本当ですか?」
 リュミエールはルヴァが手にしていた地図をチラリと見て言った。
「ええ。けれど、途中にオアシスが点在しています。そこを結ぶように進んで行くんです。これから行くサンツ渓谷地帯は、途中で砂漠が途切れて山脈へと続く場所にあります。渓谷の入り口付近にあたる場所に大きめの村があり、この馬車はそこまで行ってくれます。私の故郷の村はその隣村になるここに……」
 ルヴァはリュミエールに地図を差し出した。
「山の麓なんですね。この印は何でしょう?」
 リュミエールは、村の付近に書かれた幾つかの黒い丸印について尋ねた。
「それは坑口を示しています。この山脈は鉱山ですから、幾つもの坑穴があります。その入り口の印なんです。リュミエール、ほら、ここを見て下さい」
 ルヴァは、故郷の村のすぐ近くの山際に書かれているいびつな形の円形を指し示した。
「ここはね、村の水源となっている小さな小さな池なんです。私の故郷は、灰色や茶色の山肌ばかりの中。ここだけが唯一の美しい所なんですよ。“月の涙”と呼ばれています」
「月の涙……綺麗な名前ですね」
「ええ。この池の背面の山肌が灰色をしていて、月夜になるとぼうっと明るく照らされることがあるんです。水面にその姿が映り込み、キラキラと輝いて見える……それで、そんな風な名前が付きました。満月の夜は、殊更明るく、書物さえ読める時もあるくらいです」
「ぜひ案内して下さいね、ルヴァ様」
「ええ。もちろん。そうだ! 父や母、村の人たちも集めて、月の涙で、竪琴を聞かせて貰えませんか?」
「ええ、ぜひ。月明かりで弾くなんてどんなに素敵でしょう」
 春の宵、山の麓の湖で開く演奏会……穏やかで優しい竪琴の旋律が心地よく響き、楽しみの少ない村人たちが、幸せそうに、ひととき耳を傾ける……リュミエールとルヴァの心の中にはそんな風景が広がっていった。
 それが、叶わぬことになるとも知らずに……。

■NEXT■

 読みましたメール  あしあと ◆ 聖地の森の11月 神鳥の瑕 ・第二部TOP