リュミエールが音楽院へと向かっていた頃、一人の文官服に身を包んだ若い男が、ゆったりとした足取りで、隣接する図書館へと入って行った。
予定通りダダス大学を卒業したルヴァが、故郷ルダ国に戻って来たのだった。薄暗い館内の廊下をキョロキョロと見渡しながら、彼は一番奥の扉を開けた。
「あの〜、すみません。どなたかー。どなたかいらっしゃいますかあ」
静まりかえった室内に、間の抜けたような明るい声が響き渡る。
「はーい」
天井近くまである幾つもの書棚の奥から声がし、数冊の本を抱えた清楚な深緑のドレスに身を包んだ若い娘が出て来た。華やかな衣装ではないが、一見して仕立ての良い上質なものを身に付けていると判る。ルヴァは軽く頭を下げた。
「お手伝いして下さる文官補佐の方ね。こんにちは。助かったわ。とっても急いでいたのよ」
娘は膝を少し折って、可愛らしく挨拶した。
「ええっと、フローライトさん? 私はルヴァといいます……」
ルヴァは、前持って聞かされていた司書の名前を言った。フローライトの方は、文官補佐が手伝いにやってくると聞いており、やって来たルヴァが自分と同じくらいの年齢だと判るとホッとした様子で、気さくに話しだした。
「私はルダ音楽院の学生なんですれど、さっき、学部長から急に言いつかったんです。大急ぎで、この表の本を全部、揃えるようにって。一人では無理だからって、どなたかにお手伝いをお願いしたんです」
娘の差し出したそのリストをルヴァは覗き込んだ。
「あーー、これなら……あの、そのう」
「上から三冊は今、探し出したわ。後、二枚目のリストにあるものを探して下さる?」
娘はルヴァが何か言い淀んでいることを気にしながらも、本を揃えることを優先させて、些か畳みかけるようにそう言った。
「あー、はい。ええっと、手前の書棚から順に見ましょうか……」
ルヴァは、リストを片手に本を探し出した。そしてふと、思いついたように書棚の向こうにいるフローライトの後ろ姿に声を掛けた。
「フローライトさん、音楽院の学生だと仰いましたね? リュミエール王子とは音楽院で、ご一緒に学んでらっしゃるんですか? どんな方ですか?」
「私は竪琴が専門なのですけれど、リュミエール王子の足下にも及びません。教授でさえも。ですからあまり教室ではお見かけしないんです。リュミエール王子は、もっぱら古楽器の演奏とご研究をなさっています。本当ならスイズ大学にお入りになるはずだったとかで、音楽以外の学習も
とても優秀でいらっしゃるんですよ。だから、リュミエール王子様付きの先生が新しく赴任されると聞きました」
フローライトは本を探しながら、明るくはっきりとした声で答えた。
「あー、そうらしいですねえー」
「この本のリストは、その先生が必要とされているものなんですって。急遽、午後から挨拶にいらっしゃることになったから、大急ぎで用意するようにって。ダダス大学をたった二年ほどで、しかも
、大学始まって以来の成績で卒業なさった方なんですってね。実は私、リュミエール王子とご一緒に、その先生の特別授業を受けさせて頂けないか申し出てあるんです」
棚と棚の合間から、ちょこんと顔を除かせてフローライトがそう言った。意志の強そうな引き締まった口元と、可愛らしい大きな目が印象的だとルヴァは思う。
「あー、そうなんですかー」
「ええ。私、ダダスの出身で、ダダス大学へ行きたかったのだけど、父が、女があまり学問寄りになるといけないって。それで音楽院に入れられたんです。学部長は、リュミエール王子とその先生の許可が得られば良いと仰って下さっているんですれけど……それで、どんな方なのか気になってしまって……。
文官補佐の方なら、お逢いになったことありませんか? 恐そうな方じゃありませんでした?」
再び、書棚の陰に戻って見えなくなったフローライトの心配そうな声が室内に響く。学部長から特別授業の賛同が得られるということは、彼女もまた優秀な成績を修めているのであろうし、リュミエール王子と同席が許されるという限りは、ダダスの相当良い貴族階級の出であろう……と、ルヴァは思った。
「私はぜんぜんかまいませんよー。リュミエール王子さえそれでいいと仰るならー」
ルヴァがそう言うと、一瞬、シン……と静まりかえった後、奥の書棚からバタバタと慌てて駆け寄ってくる彼女の足音がした。
「あの……あのあの、貴方は、文官補佐の方じゃないんですか? お手伝いにいらした方じゃないんですか?」
「文官補佐ですよ。ルダでは二十歳にならないと文官にはなれませんからまだ十九の私は見習い文官です。ダダス大学卒業後、しばらくは向こうの図書館に勤務していたのですが、リュミエール王子の教育係をしてくれないかとルダ政府から頼まれまして。
午後からこちらに伺うはずだったのですが、少し早く着いてしまって……あのう、言いそびれてしまってすみません」
ルヴァは、頭を掻きながら詫びた。
「ごめんなさい。もっと年上の学者風の方かと思っていたものですから、ルヴァ先生、失礼しました」
フローライトは深々と頭を下げた。
「先生はよしてください。正式な教員ではないのですし、お願いですから〜」
パタパタと目の前で手を振ってそう言うルヴァの姿が、可笑しくてフローライトは、吹き出しそうになる。
「もしリュミエール王子との授業が叶わなくても、もし良ければ、私でお教え出来ることならいつでもご協力しますから」
「まあ、嬉しい。ありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」
「あー、いえ、こちらこそ……」
若い娘らしい仕草でにっこりと微笑みそう言った彼女の姿に思わず、ルヴァの頬は、熱くなってしまうのだった。
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