大広間を出たリュミエールは、給仕の男の後について広い回廊を進んだ。幾つか角を曲がり、ひとつの部屋の前で彼は立ち止まり、リュミエールの為に用意されていた部屋の扉を開けた。中から、スイズから同行したリュミエールの側仕えが出迎える。
「末の王子様、お疲れ様でございました。湯の用意も、できております」
「ありがとう。でも、とても疲れました。休みますので下がってくださって結構です」
「では、こちらに控えております、寝室は奥の部屋になっております」
側仕えが開けた部屋に入るとリュミエールは、彼女に「おやすみなさい」と言うと扉を閉めさせた。堅苦しい式典用の上着を脱いで椅子の上に置くと、リュミエールは、襟元のリボンを外し、“ふう……”と小さく深呼吸した。
少し開けてある窓から緩やかな風が入り込んでいる。それに誘われるように彼は窓辺へと移動した。カーテンと窓を、全部開け放つと
、テラスがあり、そこから中庭へと続いていた。その向こうの木々の合間からチラチラと光が見え、風に乗って陽気な音楽や笑い声が微かに届く。教皇一族や自分の父たちのいる宴の席……大広間に続いているらしかった。リュミエールは、テラスから中庭の花壇の所まで少し降りてみた。夜の事とて花の色合い
や形まではよく見えない。ただその花の甘酸っぱい香りが一面に漂っている。
(何という花だろう?)
リュミエールは、もっと良くその花を見ようとしゃがみ込んだ。身を低くした視線のその先に人影が見えた。その人影の主も、カサカサというリュミエールの立てた音に気づいたようだった。
(教皇庁の方? もしかしたら庭師かしら? だといいんだけど、この花の名前を聞ける……)
そう思いながらリュミエールは立ち上がった。木立の中からすっ……と抜け出た人影に、リュミエールの部屋の灯りがあたり、その輪郭が露わになる。
(あ……教皇様の第二皇子のクラヴィス様だ……宴の始めに兄君様とご一緒の時に、ご挨拶はしたけれど……わたくしの事、覚えてくださったかな? もう一度ご挨拶しなければ)
リュミエールの頭に、
“教皇様方とは、我が国は特に末永く共存していかねばなりませんよ”という日頃、言われ続けている言葉が過ぎる。 「あの……スイズ国の第三王子リュミエールです」
リュミエールがそう言うと、クラヴィスは驚いたように立ち止まった。
「ああ……先ほどは良い演奏を聴かせて頂きました……」
その言葉にリュミエールはホッとして、
「聴いて頂き、こちらこそありがとうございました」と言った。だが、通り一遍の挨拶を済ませてしまうと、ほぼ初対面の十五歳と十歳の少年の間には共通する話題もなく気まずい間が空いた。
こんな時、兄セレスタイトならば、自分よりも年下の隣国の王子を喜ばせるような気の利いた事の二言三言も、すぐに返せるのだが……と思いながら、クラヴィスは先ほどの演奏をもっと褒めようと言葉を探す。あの演奏は本当に良かった……とクラヴィスは思う。その素晴らしさに見合う言葉を探っていると、リュミエールの方が
、先に言葉を発した。
「あの……この花の名をご存じですか? とても良い香りがするのですけれど」
リュミエールは、そうクラヴィスに問いかけた。
花の名前を突然、尋ねられて、クラヴィスは自分の足下に視線を落とした。確かに良い香りがしていた。よく知っている薫りでもあった。だが、花の名前まではクラヴィスも知らない。
「……客室付近の中庭には滅多に来ないので……」
クラヴィスは首を左右に小さく振った。
「そうですか」
リュミエールは、残念そうに呟やくと、その後にまた続くであろう沈黙に耐えきれず、軽く頭を下げて、
「それでは失礼致します、おやすみなさいませ」と部屋の方へと引き返した。テラスへの段差を上がる時、チラリと、リュミエールは振り返った。クラヴィスは、元来た木立の方へと戻って行くようだった。だが、ふいにクラヴィスの方も、後を振り返った。慌てて頭を小さく下げたリュミエールに、クラヴィスが、「ぜひまた演奏にお越し下さい」と声を掛けた。
「あ……ありがとうございますっ。もしかしたら来月にあるという演奏会に伺うことになるかも知れません」
リュミエールは、先ほどの教皇の言葉を思い出しそう告げた。クラヴィスは、穏やかに微笑むと、「それは、よかった」と答え、去っていった。
だが、クラヴィスが、リュミエールの演奏を再び聴くのは、この後、数年を待たねばならなかった……。
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