第二章 聖地、見えない星

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 クラヴィス一行の乗る馬車が、鉱山の麓にある小さな町の宿屋に辿り着いたのはその日の夜、随分、遅くなってからだった。部屋に案内されてすぐに横になったものの、昼間の出来事が思い出されてなかなか寝付けないクラヴィスだった。あの声の主に思いを馳せると、自然と教皇と聖地についての様々な疑問がまた彼の中に溢れ出す。それに父の書き記した書物の言葉が断片的に脳裏を過ぎり、床につい てから二時間ほども過ぎた頃になってようやく眠気がやってきたのだった。
 だが……。それも束の間、クラヴィスは、またあの“悪夢”に囚われた。どこか知らない寂しい場所にたった独り放り出され、四方は何も見えない、何も無い……と感じられるような場所に佇む。足下にひたひたと何か得体の知れないモノがやってくる気配 のようなおぞましい感覚を耐えていると、突然、誰かの深い悲しみの声がしてくる。クラヴィスは必死で祈る。
“どうか、もう! 落ち着いて……心を静かにして”
 誰に向かってそう言うのか、クラヴィス自身も判ってはいない。“そういう感覚”がする、だから、“そう言う”のだった。夜明けが近づく頃になってクラヴィスはようやく解放され、ベッドの上に座り込み、溜息のような荒い息を何度も繰り返して額の冷や汗をぬぐう。誰でもがたまに見る悪夢と思っていたこの奇妙で辛いも のの夢の正体が、実は、教皇の証しであり、それに耐えて目覚めることが勤め……だと思うと、クラヴィスは、何かしら醒めた気持ちになっていくのだった。父は、それを『汲み上げた泥川の水を浄化し飲み水に変える濾過装置のような……』と表現した。やりきれない気持ちのまま、クラヴィスは再び横になり目を閉じた。
 数時間後、目覚めたクラヴィスは、昼食の後、武官たちの手配通りに、伯父が葬られているという無縁墓地に向かった。鉱山の麓にある町から、山へ向かって坂道を上がって行く。小一時間ほども歩いた所にその墓地はあった。年寄りが一人、墓守として住み着いている。武官の兄は、彼に向かって、クラヴィスの伯父の名を告げた。墓守は、ブツブツと独り言を言いながら、台帳を繰り始める。
「そいつぁ、確か、去年死んだやつだ……ええっと……ああ、やっぱり。一番手前の区画の右端の墓だよ。その頃、死んだ者が、ひとまとめにして入ってるだがね」
「今頃やってきて、無縁じゃなかったってのか? あんたら身なりはええみたいだが、一体どういう?」
「こちらの若様が、お小さい時に世話になった者だ。一度、手を合わせておきたいと仰ってる」
「そりゃ、ご奇特なこって」
 武官の兄は、墓守の質問を適当にあしらい、その墓の区画に向かった。人は死ねば、その屍から魂が離脱する。魂は、前世は忘れ、新しいものとして聖地へと向かう。その後、良い行いを生前した者は、また人や、馬や鳥といった美しい生き物へと生まれ変わる。
 悪い行いをしたものは、聖地に行けぬまま、下等な生き物となるか、何にも生まれ変われずに、この大地の下の泥水の中にうち捨てられる……そう信じられているため、その墓石には、聖地に向かえるよう神鳥の図を刻む。身分あるものが死んだならば、名のある彫刻家に、豪華に彫らせるそれも、このような無縁の墓地では、かろうじてそれが翼を広げた鳥であると判る程度のものである。
「若様、ここですね……ここに伯父上が眠ってらっしゃいます」
 武官の弟が、墓の位置を確かめて、クラヴィスに教えた。クラヴィスはその前にたち、頭を垂れ、胸に手を置いた。瞳を閉じ、死者に対する祈りの言葉を呟く。その姿を、やや離れた場所で武官たちは見ていた。
「やっぱり教皇様のお子だよな、ああして祈ってると何か、伝わってくるものがあるな、兄貴」
 小声で弟は兄に向かって言った。
「ああ、祈り慣れしてらっしゃるんだろう。……仕方あるまい」
 何が仕方ないのか、弟の方は理解している。ただ頷くともっと小さな声で、「とっとと終えてスイズに戻りてぇなぁ……」と呟いた。
 半時ほどして、クラヴィスは祈り終えた後、武官と共に墓地を後にした。そして分かれ道まで来た時、武官の兄が、クラヴィスに向き直っり、「若様、このまままっすぐに下に降りれば、麓の町ですが、もうしばらく散策なされてはいかがでしょう? こちらの道を少し行きますと、見晴らしの良い場所に出ます。きっと、夕陽が見事でございましょう」と言った。
「そうだな。では、そうしよう」
 クラヴィスは同意し、武官の兄の後から着いて歩いた。既に陽は落ちてきている。空はほんのりと赤い。日差しはまだ穏やかで、陰に入るとやや肌寒いものの、風はそれほど強くはない、散策するには頃合いだった。
「少しだけ道が悪ぅございます故……」
 武官の兄の言う通り、ゴツゴツとした石の転がっている道を、しばらく上がっていくと、それほど上に来ているわけではなかったが、木々が途絶えた合間に麓の町が見えていた。
「若様……ここから道が細くなっております……斜面側は崖になっています。お気をつけて……」
 先を歩く武官の兄が、振り向きもせずそう言った。
「ああ」とクラヴィスは返事をした。その瞬間、クラヴィスの背後を歩いていた武官の弟が何か声を上げた。合図だった。
「え?」とクラヴィスが振り返ったその瞬間、彼の体は、武官たちに強く押された。斜面側に向かってクラヴィスの体は落ち、ふわりと浮き上がった。落ちまいと、無意識のうちに彼の手は何かを掴もうとする。その指先に微かに木の枝が触れる。クラヴィスはそれに捕まり、上を見上げた。手を伸ばせばなんとか、まだ引き上げられる距離だった。
「若様……」
 と武官の兄がクラヴィスを見下ろす形で叫んでいる。陰になっていてその表情が見えない。
「引っかかってる。兄貴、どうする?」
 武官の弟は、しゃがみ込み冷静に言った。
「お前たち! 早く……」
 “引き上げてくれ……”と言おうとしたクラヴィスは、自分のまぬけさに絶望的になった。何故か、自分は今、武官たちに突き落とされてこんなことになっているのだと、ようやく気づいたのだった。
「鳩が豆鉄砲くらったような顔してる……悪く思わないで下さいよ、若様」
 武官の弟はそう言いながら、当然、クラヴィスを助ける気配もなく立ち上がった。兄の方はほとんど無表情で、護身用のナイフを取り出した。磨き込まれた刃にきらりと夕日が反射する。
「何故だ」
 クラヴィスは問う。
「さあ、知りません。お邪魔なんでしょう、いろいろと。おい、私が体を支えているから、お前が」
 兄は弟にナイフを渡すと、彼の片足をしっかりと掴んだ。
「もう少し前に出ないと届かない。よし、兄貴、そのまま足を持っていてくれ」
 弟は、クラヴィスが掴んでいる木の枝をナイフの先で、二度、三度と切ってしまおうとした。その度に枝が揺れ、クラヴィスの体は上下する。
「クッ……」
 もがくクラヴィスは、なんとか斜面に足をつけ、その反動で這い上がろうとする。
「仕方ない……な」
 弟は、枝を切るのを止め、ナイフを、クラヴィスの手の甲に向けた。鮮血が吹き出てクラヴィスの顔面に散る。さらにもう一刺し、えぐるように深くナイフを突き立てると、クラヴィスの手は枝から離れ、最初は斜面を転がるように、そして辺りの木々の枝を折りながら彼は崖下へと落ちていった。
 落ちていく束の間の間に、クラヴィスは全てを理解した。この旅を言い出したジェイド公の思惑を。クラヴィスの脳裏に、教皇庁の組織図が思い浮かぶ。教皇を頂点とし、その下に、数名の枢機官たち……。その中でも、第一補佐官は教皇不在の時は採決権を持つ存在である。前例では、教皇と血の繋がりのある者がそれを務めることになっていた。その多くは兄弟がなるものであったが、今の教皇の場合は他に兄弟がいなかったため、従兄弟に当たる者がその官に就いている。それ故、ジェイド公は、申し分ないほどの才覚もあり、皇妃の兄ではあるものの、教皇と血の繋がりがないため、第二の地位にいる。将来、クラヴィスが教皇になったとしたら、当然、第一補佐官はその兄で血の繋がりのあるセレスタイトとなる。クラヴィスと血縁関係のないジェイド公は、また第二枢機官とまりである。だが、セレスタイトが教皇となったならば、彼の伯父であるジェイド公は、第一補佐官になれる。まだ若いクラヴィスが学業を終えるまでの間は確実に。もしクラヴィスにそれだけの技量がなければ、ずっと……。
“そうか……それでジェイド伯父上は……私が邪魔で……セレスタイトを教皇にしようと……このまま、もし自分が死んだら、聖地から賜った力は、世襲だから……親から子へと……ならば、それはセレスタイトの中に受け継がれるしかない……”
 その瞬間、クラヴィスの心には、ジェイド公に対する怒りが消えた。セレスタイトが晴れて教皇になれる! そう思うとクラヴィスの中には、死んでいくことにたいする恐怖は消え、喜びに似た気持ちさえ生まれた。
“父上、兄上……これで、よかった、これで”
 クラヴィスは、自らの死を受け入れようとした。次に目覚めた時、自分が何者であったかを忘れ、ひとつの清らかな魂として聖地へ向かえるようにと祈りながら……。
 反転した体が天を向く。その刹那、クラヴィスの視覚の片隅に光るものがあった。暮れ始めた空の片隅に、ある者にとっては、どの星よりも一番に輝きを見せる星が、クラヴィスの運命を既に知っているかのように輝いていた。 


第二章 聖地、見えない星……了
第三章につづく

 

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