第二章 聖地、見えない星

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 クラヴィスが、父から次期教皇の件を告げられてから三日が過ぎた。その事は、まだ家族以外の者には伏せられたままだから、周囲の彼を見る目が変わったわけではないのだが、クラヴィスは前にも増して私室に閉じ籠もりがちになっていた。あの夜、父と話した内容を何度も反芻しては、溜息をつく……そんな煮え切らない時間だけが過ぎていた。そろそろ夕刻という時間になって、クラヴィスは、心を落ち着かせようと、旧聖堂に向かおうとした。部屋を出る間際、ふと目をやった机の上に、あの塔の鍵があった。
“私の書き記したものを読むといい”
 父の言葉が、再び聞こえた気がして、クラヴィスは鍵を手にした。教皇にしか入れぬというあの塔に向かうのは、今はまだ気が重い……と、思うクラヴィスだったが、その文献は読みたいと思う。
「しかたない……あれだけ急いで取ってこよう」
 クラヴィスは、また溜息をつくと大聖堂へと向かった。
 
 大聖堂には、例によって見張り番の者がおり、クラヴィスの姿を見る、すぐに寄ってきた。
「いかがなさいました?」
 クラヴィスは、返事に窮した。あの塔に行くには、教皇しか入れぬはずの扉から行くしかない。また時間を改めて……とも思ったが、見張り番は昼夜問わず控えている。あっさりと人払いが出来るほどクラヴィスは、まだ誰かに命令することには慣れていない。それを承知で、父は自分に鍵を渡したのだと、クラヴィスはその時に気づいた。臆することなく人に命令することも身に付けねばならぬ……と。控えめにしているだけではもう済まされないのだと。
「父の命により、祈りを捧げに来た、しばらく外して欲しい」
 クラヴィスは、小さい声だが、きっぱりとそう言った。
「は……はぁ」
 見張り番は、頷いたものの腑に落ちない様子である。これがセレスタイトならば、見張り番も即刻、命に従っただろう、と思うとクラヴィスの心は憂鬱になる。
「今宵は、聖地よりのお力に乱れを感じるとの事だ。父上は、お疲れのご様子なので、代わりに今しばらくの間、祈りを捧げるようにと言われた、側に人がいると集中できない」
「そうでしたか。失礼致しました。では、しばらく扉の向こうに控えております。お出ましになるまで誰も通しませんので」
 ようやく見張り番は、クラヴィスに向かって一礼し去っていった。扉が閉められると、クラヴィスは、聖堂の奥にある例の扉を開けて中に入った。まだ外は明るいので、ランプの用意は不要である。さらに扉を開けて、塔のある外にクラヴィスは出た。先日は夜だったのでよく判らなかった辺りの様子がはっきりと判る。手付かずの庭は鬱蒼としており、歴代の教皇が踏み歩いた箇所だけが草が短くなっている。塔は、頑強そうではあったが、いつ崩れても不思議でないほどに古いものだった。所々、補強した後があるが、教皇しか入れぬ場所であるから、これも歴代の教皇自らが、なんとかしたもののようだった。塔の内部に入ると、クラヴィスは、地下に向かう階段を下りた。父の言っていた書物庫になっている地下室があった。重い扉を開けると、そこはクラヴィスの予想に反して、意外とまともな部屋だった。地下とはいうものの、天井に近い部分は地上より上になるようで、光を取り込むための小窓が上手い具合に設置してあり、室内には、柔らかな自然光が差し込んでいる。
「なんだ……もっと黴臭い陰気な部屋かと思ったのに……」
 クラヴィスは、ほっとした様子で、そう呟きながら辺りを見回した。 壁に沿うように設えられた書棚に、ぎっしりと歴代の教皇が記したものが保管されている。部屋の中程に机があり、その上に黒い革表紙の本が置いてあった。クラヴィスはそれを手に取る。見知った父の筆跡があった。歴代の教皇が残した資料から抜粋して書き写したもの……だった。クラヴィスは一旦、それをまた机上に戻し、書棚を見渡した。一冊抜き出しては、パラパラと頁を捲り、また戻す……何回かそれを繰り返しているうち、棚の下段に一抱えほどの大きさの木箱があるのにクラヴィスは気づいた。蓋の表面に彫り物がしてあり、それをそっと開けると、様々なものが無造作に放り込まれていた。筆記具、虫メガネ、銀製のカップ、煙草盆……どれも古ぼけてはいるが、質の良い美しい造りの品々だった。この塔の地下室で、時を過ごした歴代の教皇の私品と思われた。何人もの教皇たちが、ここで聖地に思いを馳せ、自分という存在について模索していた時に 傍らにあった品かと思うと、クラヴィスの気持ちは少し軽くなった。
 それらの品を、ひとつひとつ眺めながら取り出していくと、木箱の一番底に、無造作にグシャグシャと油紙に包まれたものがあるのにクラヴィスは気づいた。それを開けると、金枠に大きめの色石の付いた宝飾品が出てきた。教皇の 身を飾る宝飾品としては、その細工は無骨と思えるようなものである。だか掌に持つと、その大きさ、重さ、枠と石の比率など、なにかしら、しっくりとくるものがあるとクラヴィスは感じた。彼は、それを窓から差し込む僅かな光に翳した。

クラヴィスの石


「紫水晶かな……」
 自分の瞳の色とよく似た石を、クラヴィスはじっと見つめた。よく見ると石の内部に斜めに分かつかのように、傷が入っていた。
“ああ、それで……”とクラヴィスは思った。傷のないものならば、古そうなものであるし、そこそこの価値があるだろうから、きちんと歴代の教皇のものとして展示室に保管されるはず だ……と。
 しばらくの間、その水晶をゆっくりと動かして光の通り具合を見ていたクラヴィスだが、日がだんだんと翳り、いよいよ室内に光が差し込まなくなってきたのに気づいた。部屋の中は一気に暗くなり始め、クラヴィスは 、散らかした木箱の中身を慌てて元に戻すと、机の上に置いてあった父の書き記したものを持って、部屋を出ようとした。
「あ、しまった……」
 クラヴィスは、先ほどの紫水晶の宝飾品を机の上に、しまい忘れていることに気づいた。彼は、無造作にそれを掴み、父の書き記したものと共に持って部屋を出た。縁のないものだったならば、クラヴィスは、そのまま机の上に置い たまま部屋を出ただろう。教皇である父と彼しか入れぬ部屋なのだから、古びた宝飾品をひとつ仕舞い忘れた所で、誰に憚ることもないのだから。だが、クラヴィスは、手に取ったそれをしっかりと握りしめた。
 その時、遙か彼方の聖地で、その気配を感じて、安堵している人の存在など知る由もなく……。
 
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