第八章 11

  
 魔の海のあたりが、もっとも穏やかになる季節に合わせ出航する。おりしも時は、五の月の半ば過ぎ。心地よい風が、ジュリアスたちを祝うように吹いている。インディラの港に一隻の船が停まってい た。地元の人間はもう見慣れているらしく、子どもですら気にも留めないで、その前を通り過ぎていく。だが、クゥアンからやって来た者たちは、その船の大きさに息を飲んで見上げている。それまで船といえば、魚を捕るための小舟か、湾岸沿いを行き交う小さな帆の付いた交易船しか見たことがなかったからだ。風を利用してどの方向にも進めるように 張られた巨大な帆は、強い風の時は折り畳むことも出来る。この船を設計した技師から、何度も説明を聞き、進水式にも立ち会ったジュリアスたちでさえ、完全に仕上がり、帆を何枚も張った船の立派さに息を飲んでいる。

「交易も漁業も外洋に出ずとも行えます。だから今まで、この規模の船は必要なかった。この大きさと、多方向からの風をある程度操作できるこの船ならば、きっとあの魔の海域も越えられるはずです」
 船を造った技師の一人が、ジュリアスたちを前にして再度きっぱりと言った。そして「ジュリアス様、どうぞ」と彼を促して、一段高くなったところに結わえてある綱を手渡した。 その綱を断ち切れば、船の航海の始まりを意味するという儀式だった。ジュリアスは、自分の短剣を手にしようとせず、横に控えているオスカーに向き直った。
「あの短剣を貸してくれるか?」
 オスカーは、ハッとして頷く。
「そうだね。あの剣で切る方が相応しいね」
 オリヴィエも、ジュリアスの思い付きに賛成した。オスカーから手渡された短剣を、ジュリアスは高く掲げて、一同を見渡した後、綱を切断した。それを合図に、聖杯に注がれた酒を、 技師や第一騎士団の者たちが船に注ぎかける。勢い余って側にいる仲間に酒をかけてしまった者が仕返しをされたり、勿体ないからと余った酒を味見する者たちがいたりして、誰もが出航前の一時を陽気に過ごしていた。ジュリアスもまた、聖杯を片手にオリヴィエやオスカーたちと笑い合っていた。
「いよいよ、なのだな……」
 ジュリアスの側に、ツ・クゥアン王は近づき声をかけた。
「伯父上、いろいろとお世話をかけました」
 ジュリアスは、小さく頭を下げた。ツ・クゥアン卿を国王と定めて、瞬く間に過ぎた日々の中、彼がどんな思いで執政を取っていたかジュリアスにはよく判っている。ツ・クゥアン王付きの文官や元老院の中には、あの一件の全てを知っている者が僅かながらいる。ツ・クゥアン王は、彼らをしっかりと押さえつつ、ジュリアスの代わりとなる執務を淡々とこなしていた。
「いいや、私のほうこそ、礼を言わねば。だが、過ぎたことはもう言うのは止めよう。どんなに言葉を尽くしても言い切れないから……。それより、私は嬉しかった。先ほど、オリヴィエ様たちとそなたが笑っていた顔……子どものように……あの笑顔に私は、自分の存在価値を見出したような気がしていた。私は……、私のようなものでも、生きていても良かったのだ……と」
 ジュリアスは、穏やかな目をして頷いた。
「きっとご無事で戻られますようにな」
 ツ・クゥアン王は、そう言うと、ジュリアスの元をやや離れ、インディラの町を取り仕切る領主と供に、世間話をしながら出航を待つことにした。
 同行する船の技師や第一騎士団の者たち、雇い入れた船員たちが、それぞれの家族や仲間と別れを惜しむ中、ジュリアスは、積荷の陰で、一人、文を読むオリヴィエの姿に目を留めた。また リュホウからの便りを読んでいるのだな……とジュリアスは思った。クゥアンを発つ、少し 前にオリヴィエ宛てに届いたその書簡には、見送りに行けぬ事を詫びた内容の文が届いていた。農閑期ではない今は、国から出ることが叶わない。山裾の荒れ地の開墾が上手く行くかどうかの瀬戸際だ……というようなことに混じって、航海の無事を祈る言葉と供に、 リュホウらしからぬ優しい言葉がしたためてあった 、とジュリアスは 、オリヴィエから聞いていた。
「オリヴィエ、そろそろ乗船せねば」
 ジュリアスは、オリヴィエの側に行き声をかけた。
「ああ……そうだね。ついつい、別れを惜しんじゃって」
 オリヴィエは、また文を出して読んでいた所を見られたのが、気恥ずかしく思い、少し照れくさそうに笑った。
「兄様とワタシ、一年ほど前に比べたらその関係のなんと変わったことだろう……と思って……ついしみじみとしちゃうんだよ……」
「それは私も同じだ。私と伯父上も。他人のように、伯父上は私を王と呼び、私はツ・クゥアン卿と呼ぶ。一切が、王と側近の一人として対応していた……。オスカーとロウフォンもそうだろう。季節の文しか交わさぬ仲であったと聞く……それが、あのように……」
 ジュリアスは船の前で、何か話込んでいるオスカーとロウフォンを見た。オスカーは、大袈裟な身振りで何かの説明をしているようだった。ロウフォンは笑いながらそれを聞いている。
「これのお陰かな……ずっとお守りみたいなものだと思ってたけれど」
 オリヴィエは胸に手をやった。きっちりと詰めた襟の下にあるあの薔薇色の石の付いた首飾りである。
「オスカーは、極限状態にあった時、石と自分が呼応しているように思ったという。もしかしたら、私のものや、そなたのもの、オスカーのもの、それぞれの石も我々の知らないところで呼応しあっているのかも知れぬな」
「そうかも知れない。ワタシたちを導くように……ね」
 オリヴィエは、ジュリアスの肩先に付けてあるラピスの宝飾品に触れてそう言った。その時、ジュリアスとオリヴィエの視線に気づいたオスカーが、ロウフォンとの会話にきりを付け、やって来た。
「どうなさったんです? 二人して何か神妙な感じがしていましたが?」
 オスカーがそういうと、オリヴィエはクスッと笑い、さきほどジュリアスと話していたことを説明した。
「なるほど……。父とは絆を深め、いい関係になれて本当に良かった。いや……最初からそう悪い関係じゃなかった……ただそれに気付かなかった。父という大きな存在が疎ましくて、障壁を作っていたのは、自分自身の未熟さ故だったんだな……」
 オスカーは、しんみりとそう言った。
「死にかけた人間って、やっぱり何かを悟るんだねぇ……」
 オリヴィエは、大真面目な顔をしてそう言った。
「うーん、何かむつかく言い様だなぁ」
「そら、そこに、もう一組、絆を深めた者同士がいるぞ。先日まで啀み合っていたのが嘘のように仲がいい」
 笑いながらお互いを小突きあっているオリヴィエとオスカーを、ジュリアスは止め、船に乗り込もうとしているラオとヤンの方を見た。
「最後まで言い合いを繰り返してたなあ……二人とも。好奇心旺盛なヤンは、ただただ行きたいの一点張り、ラオだけが行くのが許せないみたいだったな」
「ラオは、老い先短いからどうなろうといいと言って自分が行くと譲らないしねぇ」
 彼らは、クゥアンを発つ直前まで二人が揉めていた事を思いだした。
「それでも納得しあえたから良かった」
 ジュリアスの言葉に、オリヴィエとオスカーは同時に頷いた。家の跡取りであるヤンを行かせたくないラオを相手に、ヤンは一歩も引かず、最後の最後に、「爺ちゃんは結局、ジュリアス様を信用していないのか! 帰って来られないと決めつけているみたいじゃないか。ジュリアス様のお決めになった航海に、何の不安があるんだよ。二人で行って、ちゃんと二人で帰ってくればいいだけだろう」と叫んだのだった。
「二人して行かない……っていう選択肢が、ラオとヤンにはなかったところが、なんとも、らしくて、ねぇ」
 オリヴィエたちは笑った。その声に振り返ったラオが、叫ぶ。
「お三方とも。皆、そろそろ乗り込んでおりますぞ。お急ぎらならないと、置いていきますぞ!」
「ちょっとっ。ワタシたちを置いてってどうするんだよっ。まったく……」
 オリヴィエは、ラオの側に駆け寄って行った。
「ジュリアス様、行きましょう」
「うむ」
 ジュリアスとオスカーが、オリヴィエの後に続いた。船体に掛けられた梯子を伝って、三人が乗り込むと、出航を促す合図のラッパが吹かれた。帆の位置が変わり、船がぐらりと一旦揺れた。二度、三度と横揺れした後に、船はゆったりと前進を始めた。乗船している者たちは、港に残っている者たちへ、ちぎれんばかりに手を振った。ツ・クゥアン王とロウフォンが並んで、船を見上げている。その姿が徐々に小さくなり消えてゆくと、 帆の調節をしている技師たちを眺めているオスカーとオリヴィエから離れ、ジュリアスは独り、甲板から船首へと移動した。

 揺らぐ波間に光が反射する。それを切り裂くようにして船は西へと進んでいる。吹く風が、ジュリアスの頬を緩く叩く。前を飛ぶ鳥の姿に惹きつけられた彼の視線は鳥を追う。大きく旋回し上がっていく姿に釣られて、ジュリアスは空を見上げた。青い瞳に澄んだ大空が映る。やがて鳥は 、進路を西へと変えて、そのまま真っ直ぐ飛んで行ってしまった。海と空だけしか無い広い空間が、ジュリアスの視界に残される。その狭間で揺れている船……。港にいた時は、あんなにも大きいと思った船が、今は小さく思えた。今まで感じたことのない広大な世界が、目前にあり、自分を待っていることを 、ジュリアスは改めて感じていた。


神鳥の瑕 第一部 終

あとがき