第三章 8

 
 十三歳の時の事だ。オスカーの故郷ホゥヤンでは、男は十三になると身分ある家の子は、正式に自分の馬を父親、もしくは後見人より賜る。牧場が母の実家のオスカーにとっては、今更ではあったが、それでも、自分だけのために用意された馬を賜る喜びは特別なものがある。
 例年の如く、馬の買い付けにやって来たジュリアスに、オスカーは、自慢した。そして、早々に二人して遠出に出掛けた時の事だった。

 草原を横切っていた時、野兎の巣穴近くを通ったらしく、驚いて飛び出してきた兎を避けようとして、オスカーは手綱を引いた。が、轡(くつわ) と手綱の結び目が緩んでいて、その引きが思うようにいかなかった。野兎を踏むまいとして無理な方向への移動を強いられた馬は、ちょっとした地面の起伏に足を取られて、オスカーを乗せたまま転んだ。
「大丈夫か?」
 先を走っていたジュリアスが慌てて戻って、オスカーに声をかけた。
「落馬だなんて何年ぶりだ、あ痛……」
 照れくさそうに笑いながら立ち上がったオスカーの背後で、馬の方も懸命に立ち上がろうとしていた。
「轡と手綱の結び目が緩んでいたようで……今、結び直すからな……どう……」
 オスカーは、ジュリアスに言い訳した後、よろよろと立ち上がった愛馬の鼻先を撫でた。
そして……。
「おい……お前……」
 オスカーは絶句した。
「折れているのか?」
 自分の馬から降りたジュリアスが、オスカーの背後でその様子を見てポツリと言った。馬は三本の脚で立っている。
「まさか……まさか、こんなことで……捻挫かもしれない」
 オスカーはしゃがみ込み、祈るような気持ちで、脚の具合を見た。
 馬の左前脚は、ぶらりと垂れ下がっている。折れてしまっていることは一見したたけでも明らかだった。
「運が悪かったとしか言い様がない」
 何も言えなくなっているオスカーにジュリアスはそう言った。
「ジュリアス様、馬を貸して下さい」
 オスカーは立ち上がると、必死の形相でそう言った。
「どうするのだ?」
「戻って人を連れてきます。荷車で運んで……」
 涙声になりながらそう叫んだオスカーに、ジュリアスは冷静に言い放つ。
「ここから一旦、牧場に帰り、荷車を持ってやって来る、そしてまた戻る。どれほど時間がかかる? その間、この脚の折れた馬は身動きひとつせずに立っていられるのか? 今は本能で立ち上がったが、次に倒れれば、もう二度と自力ではたてまい。無事、牧場まで運んだとしても、待っているのは死だけだ。馬にとって脚を折ることは死を意味していると、知らぬそなたではないだろう」
「けれど、けれど、命だけは……」
 全てを言い終わらぬうちに、ジュリアスはオスカーの頬を打った。馬は脚が折れれば、お終いである。梁から吊した紐で、体を支えて吊されて命を長らえても僅かの事であり、寝かせて置いたとしても 、これだけの巨体を床ずれしないようにするのは人力ではあまりある。やがては皮膚病となり苦しんだあげくに処分されてしまうのだ。
「あ……」
「目が覚めたか」
「…………」
「そなた、付いていてやるがいい。私が牧場まで戻って、毒草を取ってこよう。すぐに楽に逝ける」
 ジュリアスの申し出に、オスカーは項垂れて首を左右に振った。
「毒草は今、ないんです。切らしていて。届くのを待っている所なんです」
「どこか近くで毒草が手に入る所はないか?」
「先にちょっとした内乱が地方であって、その時、脚を折った軍の馬を処分するために、うちでも毒草を提供したんです。だからこのあたりではたぶんどこにも」
「ならば致し方ない」
 ジュリアスは、腰の剣に手を掛けた。
「お、俺が……」
 一応は、そう言ったオスカーだが、顔は青ざめ手は震えている。
「そなたには無理だ。この馬に対する情がありすぎる。私はこの馬に今日、会ったばかりで、そんな感情はない。まかせよ、苦しまないようにする」
 ジュリアスは剣を持ったまま、馬の前に立った。馬は小さく嘶いた後、もう立っているのが限界で、どさりとその場に崩れ落ちた。荒い息をしながらジュリアスを見上げる馬の心臓をジュリアスは探る。ドクドクと脈打つそこに剣の切っ先を向けたジュリアスは、迷うことなく力を込めた。
 オスカーは、ただ黙ってその様子を見ていた。恐ろしくて声が出なかった。生き物の死に対してではない。小動物を手にかけることなどは、生きるためにはごく普通の事であったし、人が処刑される様も見たことがある。ジュリアスから滲み出る特別の風情が怖かったのだ。当時ジュリアスは十六歳であり、既にクゥアンの王位についてから六年の歳月が経っていたが、背ばかりが先に伸びる時期であるらしく、すらりとした優雅な容姿が目立 っている。その彼の普段の姿とはまったく違う様に、オスカーは圧倒された。同じ年頃の友人の中にも、実年齢にふさわしくないほど大人びた者や、しっかりした者、醒めた者などがいたが、そのどれとも違う冷酷なまでの決断力と実行力、真に王たるものだけが持つ尊厳さを、オスカーは目の当たりにした。
 馬を始末した後、ジュリアスは、呆然としたままのオスカーを自分の馬に乗せ、彼の背後に乗ると帰路についた。三歳になった頃には、もう一人で馬に乗っていたオスカーである。気恥ずかしさよりも自分に対する怒りが込み上げてくる。それに、新しい馬を貰ってここ数日間、乗り回していたにも係わらず、 馬具の点検をきちんとしなかった、もしそうしていたら最悪の事態を免れたかも知れないのだ、と思うとオスカーの気持ちは収まりがつかない。それを彼の後で感じ取っているジュリアスが、ゆったりとした手つきで手綱を操りながら言った。
「済んだことだ。次、同じ事にならなければいい。そなたは二度と同じ過ちは繰り返さないだろう。だから、もうよいではないか。だが……今は、泣いてもよいぞ」

 あの時は自分の事で精一杯だったから、ただジュリアスの言葉を素直に受け止めただけだった……とオスカーは思う。今になって思えば、あの言葉を言わせた、まだ十六歳のジュリアスの背後にどれだけの重圧があったのだろう、と。二千年の歴史を背負う国の、ましてや金の髪を持つ王として生まれ、注目され、期待されて……。
 オスカーは、少し目を開けて、ジュリアスを見た。その端正な横顔は、静かに本に目を落としている。
“ついに……覇王になられたんだな……けれど……”
 けれど、目の前のジュリアスには、いままでのような他国を征した時の青い火花が散りそうな鮮烈なまでの近寄りがたさがない。リュホウに剣を向けた時のあの感じがまるでしない。全ての国を征したことでジュリアス 様の中で、何かが終わったのかも知れない……とオスカーは思いながら、再び目を閉じた。

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