「ねぇ、そのアブなんとかって通り、遠いの? ぶどう畑ってよく聞くけどさあ?」
「そんなに遠くはありませんよ。方向的には、ラパン・アジルまで行きません。もう少し手前です」
 ラパン・アジル……モンマルトルに住む者たちに愛されてる有名なシャンソン酒場である。酒と料理、そして音楽を提供するだけでなく、議論の場でもある。上海から来たリュミエールとオリヴィエにとっては、そこに気軽に出入りできるほどには、まだこの土地に慣れていない。
「……ああ、前を通ったことがあるような……」
 オリヴィエは、今ひとつ、土地勘が掴めていない様子で曖昧に答え、リュミエールの進むままに後を付いていくしかないのだった。

 例によって坂を上がったり、降りたりしながら、二人は目的の通りにやって来た。自分たちが住んでいるのと同じような古ぼけたアパルトマンの一室の扉を叩くと、まだ若いモシャモシャとした頭の青年が寝ぼけ眼で出て来た。
 彼は、目を擦り、大あくびをしながら、一通り、リュミエールの話を聞くと、ゴソゴソと玄関横にあった古籠の中から、紙切れを取り出した。

「上海なんか行ったこともないよ。ここ。ここで貰ったんだ。古本屋に持ってけば金になるかもと思って」
 グイッと差し出された紙切れを、オリヴィエは受け取る。住所と名前がタイプライターで打ってある。それだけでは、何かの店なのか、個人の家なのか判断できない。
「ここはどういった所なの?」
 オリヴィエが、尋ねた。
「金持ちの家だよ。少し前に、子ども部屋の壁に絵を描いて欲しいって頼まれたのさ。羊やら兎やら花やらのね。三歳くらいの男の子がいてね、楽しめるようにって。その時、不要品として本が、玄関横に束ねてあって、捨てるんならと貰って来たのさ」
「その家の人って、中国に関係ありそう?」
 オリヴィエがさらに尋ねると、青年は首を左右に振った。
「さあ、わかんないよ。でも、応接室に、高そうな東洋の壺があったから、前に旅行にでも行ってたんじゃない?」
 彼がそう言うと、オリヴィエとリュミエールは顔を見合わせ、ビンゴ!と呟いた。
 そして、二人は意気揚々と貧乏青年画家の部屋から通りに出た。
 オリヴィエは、先ほど渡された紙片をリュミエールに手渡した。

「これって、どこ?」
「サン・ルイですね……ノートルダム寺院のお隣の島」
「ノートルダム? 歩けない距離じゃないけど、ちょっちあるねえ」
「どうします? 余所様のお屋敷まで押しかけることもないでしょうか?」
「うん……。でも、もし最近まで上海にいた人で、お金持ちの仏蘭西人なら、ジュリアス様のお知り合いだったりして、懐かしい話のひとつも出来るかもねえ……」
「じゃ……行ってみますか。セーヌの河辺をお散歩するつもりで」
「そうだねぇ、八月でも巴里は涼しいしね、上海ならこうは行かないよー」
「上海の八月……、毎年、夏場は仕事も暇で、食べ物もすぐに腐ってしまうし、生活、苦しかったですね。まあ今だって同じようなものですけれど」
「オスカー、生きてるかねぇ。アイツも毎年、夏場は暇だ暇だって言ってたねえ」
「オスカーのことですから、ジュリアス様に、何かお仕事を貰っていますよ。蓬莱国迎賓館の警備とか警備とか警備とか……」

 オスカーのこき下ろしで妙に盛り上がりながら二人は、モンマルトル地区から、レアール地区にと入った。二人にとっては、ほとんど馴染みのない地区だった。大きな市場といった風情の町並みに驚きながら歩く。焼きたてのパンを売っている店で、それを買い求めた後、幾つかの路地を抜け、サンドニ通りに出た時、オリヴィエが急に「あっ」と声をあげた。

「どうしたんです?」
「ここってさあ、すっごくいかがわしい劇場(コヤ)とかがある通りだよ。今は昼間だけど、夕方になって来てごらん。野鶏(ヤーチー/客引きをしている娼婦)がいっばいいてね……」
「巴里では野鶏とは言わないでしょう。……それにしてもまだ巴里の地理には疎いクセに、そういうことは詳しいのですね?」
「い、行ったことはないよ。カフェのお客が言ってただけで!」
「ふぅん」
「なんだよ、その疑いのマナコは! 嘘じゃないったら」
 ぶつぶつ言いながら、オリヴィエは、急に早足になったリュミエールを追った。その通り抜け、セーヌ河の見える方向目指して二人は、パンを囓りながら歩いた。
「ルーブル美術館ですねえ……ちょっと寄っていきま……」
 まだ言い終わってないリュミエールの腕を掴んでオリヴィエは、ズンズンと歩く。
「も、もう。オリヴィエったら〜」
 

next

   水夢骨董堂TOP このお話のTOP